にっぽん はっぴー ばれんたいん

 二月に入ったばかりの廊下はひどく寒く、コートとマフラーを通り越して、冷たい空気が身体にしみこんでくるような気がしてくる。
「ねえ、ちょっと聞きたいんだけど」
 学校の図書室で宿題の調べ物をした帰り、作本は唐突に関係ない話を切り出した。
「ん、なに?」
 十メートル先の角を曲がれば昇降口、というところで、作本は僕の前に立ち、足を止めた。
「I falling love with youって、日本語で、どう言うと思う?」
 『英語の歌を調べて、日本語に翻訳してみよう』という、英語の宿題だった。
 この間の席替え以来、僕と作本は教室の席が隣り合っている。まあこの際だから、と作本が持ちかけ、僕と共同で、宿題をやっつけることに決まってしまっていた。
「be動詞が抜けてる」
「そんな細かいこといいから!」
 全然、細かくなんかない。試験の答案なら、一点ももらえない。
「えーと、『私はあなたと共に恋に落ちています』じゃないかな」
 さっきまで辞書や音楽雑誌を片手に翻訳していた洋楽には、そんな部分はなかったような気がするが。
「そうじゃなくて! しかも微妙に違うし!」
「えっ違うか?」
「それは、英語を機械的に翻訳しただけでしょ? あたしが聞いてんのは、日本語だったら、どう表現するかってこと!」
「あー、はいはい、はい」
 やっと、僕にも作本の言いたいことが理解できた。
 たとえば、「Good morning」を直訳すれば「いい朝」だが、日本語としては「おはようございます」に相当する。「Good mornig」のどこにも、日本語の「おはようございます」のニュアンスはこもっていないが、僕らは、どちらのセンテンスも、使う状況と場合を心得ている。
 そういうことを、作本は問題にしている。
 でも、なぜ。
「んー、と。私はあなたのことを好きになり始めています」
「違う違う! ぜんぜんわかってない!」
 なぜだかわからない。
 わからないが、作本の語気が急激に荒っぽくなりだした。
「好き、ってのは連用形でしょ? 用言の名詞的用法でしょ?」 
 間違っているような、いろいろと混ざっているような気がするが、作本の口ぶりには妙な説得力がある。
「なり始めているんじゃない、もうとっくに好きでいた。そこからもう、あんた、間違ってる!」
「それだったら、動詞は継続を伴う現在完了形にして」
「そこはどうでもいいから! いい!?」
 なぜ、作本はここまで熱く語るのか。
 英語の宿題に、なぜここまで思い入れがある。
「loveは実際に動作を伴っているから、活用形的に終止形!」
「現在進行形のSVCだと思うが」
「うるさい馬鹿黙って聞け!」
 作本の吐く息が、白く、濃い。
 本気で怒っている。
 気に障るようなことを、僕は言ってしまったのだろうか。
「あたしが聞いているのは、日本語だったら、loveをどう言い表すか」
 頬を膨らませて、作本は僕に背中を向けた。
「あんたならどう言うかって聞いてるの!」
「え」
 僕は混乱する。
 なぜ、僕にここでそんなことを聞く。
「どうなの、わかるの? わからないの!? 学年五位のくせに!」
 成績なんか、関係あるのだろうか。
「ちょ、ちょっと、急には」
「じゃあ宿題ね、次、会うまで宿題!」
「お、おう」
 歩き出しかけて、作本はくるりと僕に振り、わずかに足を動かして僕に詰め寄った。
 ずっと両手で抱えていた鞄を開き、ごそごそとかき回す。
「あと、こ、これ!」
 作本が、すばやくなにかを僕に突き出した。
 平べったい、赤い色の包装紙で包まれた、金色のリボンのついた箱状のなにか。
 作本が、踵を浮かせて僕に顔を寄せる。
「I falling love with you!」
 僕の右の頬に、作本の柔らかい唇の感触がかすった。
「宿題だからね、絶対だからね!」
 蓋も閉めないまま鞄を抱え、作本は全力で走りだした。

トップページへ

inserted by FC2 system