二
 
 チャイムが鳴る。
 答案用紙を睨みつけていたクラス中の目が、ほぼ同時に黒板の上のスピーカーに向けられた。
 試験監督を務めていた佐々岡先生が、腕時計に視線を向け、立ち上がろうと教卓の縁を握った。
 佐々岡先生が立ち上がって声を出すより先に、最後尾に座っている生徒が席を立ち、答案用紙を集めながら歩き始める。三日間続いた期末試験の重圧から、一刻も早く抜け出したいのだ。
「ふひ――」
 期末試験、最後の試験科目は数学だった。
 だらしのない裏声を上げた雅史が席から立ち、秀範に近づいた。
「おい、どうだった、数学」
「外れか当たりのどっちかだぜ」
「ほんとかよ」
 的外れなやり取りをする雅史と秀範に、隣に座っている女子生徒が迷惑そうに眉を寄せる。
「多分な!」
「すごいなお前!」
 自信たっぷりに言ってのける秀範に向かって、雅史は手を伸ばした。
「秀範はいいよな、地の頭がいいから――少しは中身、分けてくれよ」
 耳たぶを引っ張り始めた雅史の手を、秀範が払いのける。
「そう言うな。結果も出ていないのに」
「おまえはどうだったよ、耕祐――」
 耕祐のいつもの、なんとなくだらけた声が帰ってこない。
「あれっ」
 雅史が向けた視線の先には、斜めに椅子が戻された机だけが見えていた。耕祐の姿はない。
「どこに行ったんだ、あいつ」
「はい、それじゃ――」
 答案用紙をまとめ終えた佐々岡先生が、教室をぐるりと見回した。
 緩んでいた教室の空気が、佐々岡先生の声で現実に引き戻される。終業式は来週だ。今回の試験の答案が返却され、試験内容の指導と補習のような授業が全科目で行われてから、終業式、そして夏休みとなる。
「今朝も言ったけど、これからすぐに掃除を始めてください。終わったら帰りの会になるので、てきぱきと進めて」
「きりーつ」
 秀範は、佐々岡先生の視線を気にしながら声を低くした。
「あいつ、テスト終わらないうちから、なんか、小刻みに動いていたし」
「なんだよそれ」
「知らね。トイレだろ」
「ちゅうもーく」
 なかなか席に戻らない雅史を、佐々岡先生が教壇からじっと見ている。
 よくわからない、と首を傾げた秀範から視線を前に戻し、雅史は小走りで自分の席に戻っていった。
「礼ーっ」
 教室を出て、廊下を歩き、階段を下りだしたころになって、耕祐はようやく、長く息を吐いた。一夜漬けで凝り固まった頭の中が、ようやく自我を取り戻し始めたような気がしていた。薄暗い階段を下りて、二階の廊下へ出る。
 校舎中の生徒が掃除を始めていた。校内放送で、『くるみ割り人形』の『花のワルツ』が流れ始めている。掃除の時間のテーマ曲だ。掃除をさぼって教室から抜け出したことに、罪の意識を感じる。
 だが、今は掃除どころではなかった。耕祐にはどうしても納得しておきたいことがあった。
 宝蔵美代の正体。
 耕祐は、廊下からそっと図書室の中を覗き込んだ。
 掃除の時間ということもあり、図書室にいるのは司書の先生と掃除担当の三年生しかいない。
 図書室の中央に並ぶ長机に、普段なら何人かはいるはずの、ノートや本を広げた生徒の姿はない。
 掃除の邪魔をしないように、司書の先生に見とがめられないように、できるだけ足音を立てずに図書室を歩く。手垢の染みた古い本の匂いが、平常心でいようとする気持ちを少しずつ興奮させていく。
 耕祐は、出入り口から一番奥の本棚の前に来た。学校が発行する印刷物のファイルが並んでいた。出入り口から最も遠いところに位置する本棚だったが、司書の先生の事務机から丸見えの場所だった。今は掃除の時間で、司書の先生も雑巾を持って図書室の中を動き回っている。すぐに見つかって持ち場へ戻れと言われることもないだろう。
 そう自分に言い聞かせて、耕祐は手を伸ばす。
『文集 先浜』
 先浜中学校が、毎年作ってきた全校文集だ。十年分ずつ、一つのファイルにまとめられている。その年の秋の文化祭の時点で先浜中学校に在籍している全生徒の作文が、必ず最低一人一作品ずつ、収録されている。
 クラスごとに目次が作成されていて、そこを見れば、その年ごとの生徒の名前がすぐにわかるようにもなっていた。そのはずだ。
 はがれるたびに貼り直される『禁帯出』のシールが何層にも貼られた、B5サイズの黒いファイルを、耕祐はそっと手に取った。予想よりも重量があって、思わず両手に力を込める。
 去年印刷された、耕祐が一学年だった時の文集を開く。耕祐は四組、佐緒里は二組だった。二学年になってクラスが一緒になったこの四月から、会話が劇的に増えたということはなかった。が、一学年の時は一学年の時で、クラスが別だったから全く話をしない、わけでもなかった。学校の廊下ですれ違ったり、学校の外で顔を合わせたりすれば、なにかしら言葉を交わしていたのを、今さらのように思い出す。
 佐緒里は去年の文集でどんなことを書いていたのか。本来の目的を脇へ追いやって、耕祐はつい気になってしまった。
 一年二組のページを開く。
『ピアノと努力 志賀佐緒里』
『球技大会』『体育祭』『部活動』『野外活動実習』――。
 学校行事にまつわるキーワードの埋め込まれた、当たり障りのない表題が並ぶ目次の中で、佐緒里の作文の表題はどこか異質に見えた。こういう作文は、あまり自己主張や独自性の強い内容はタブーではないのか。一年の時は、佐緒里はクラスでどこか浮いた存在と見られてはいなかっただろうか。
 毎年、在籍している生徒に配られるものだから、耕祐だって既に読んでいるはずだった。そのはずなのに、他人の日記を盗み読むような罪の意識をなぜか感じる。佐緒里の作文が掲載されているページをめくる耕祐の指が、緊張でぎこちなく動く。
 小学校のころ親に勧められてピアノを始めた。上達する自分を親は褒めてくれたが、レッスンはいつも厳しい。プロを目指しているわけでもないのに、どうしてこんなに辛いのかと疑問に感じながら、今も続けている。
 中学に進んで吹奏楽部に入った。これまで全く経験のなかったフルートを吹くようになってから、ピアノをしていてよかったと思う瞬間が何度もあった。努力は辛いことばかりだけれども、今までの努力は無駄じゃなかったと、ときどき昔の自分を振り返る。
 佐緒里の作文を要約すると、こんなことを書いてあった。
 なんだ、これ。
 耕祐は身動きが取れなくなった。
 ページをめくるついでに流し読みした他の生徒の文章にありがちな、『楽しい』や『思い出』という類の単語が、まったく出てこない。耕祐自身の作文でも登場する、 自分の体験に対する明快な肯定や中学生らしい素直さが、どこにも感じられない。一言でいえば、どこか年寄りじみている。
 佐緒里は楽しくてピアノを続けているのか、動機がどこからきているのか。吹奏楽部は楽しいのか。親やピアノの先生がこれを読んだらどうなるのか。佐緒里の作文を読む限り、耕祐には全く理解できなかった。比較的近いところにいるはずの佐緒里のことすら、耕祐には理解できていない。
 背後で物音がした。
 図書室のじゅうたん掃除に使われている、家庭用の掃除機の音が聞こえだした。
 他にも、雅史や秀範や、知っている名前がないかと探しかけて、耕祐は現実に引き戻された。掃除をさぼって立ち読みに来たわけではない。周りから見ればサボっているようにしか見えないだろうが、少なくとも自分自身は、脱走してきたつもりではいない。
 長机の下に掃除機をかける時にパイプ椅子を引く音が、利用者のいない図書室に響く。長居すれば、さすがに司書の先生も、耕祐が掃除の時間にここにいることに疑問を感じ始めるだろう。急いで一学年の目次だけをめくり、宝蔵美代の名前を探す。
ない。
 ページをめくる音と、掃除機のモーターの音がやけに耳に障る。
 慌てたせいで見落としたかと、もう一度、一年一組から順に、宝蔵美代の名前を探す。
 どこにも、まったく見当たらない。
 長机の置かれている辺りから、声が聞こえる。
 なにを話しているのか聞き取れず、そのことがかえって、自分のことを言っているような気になってくる。
 焦りばかりが募る。
 握力が抜け始めた手で、次のファイルを手に取った。
 実浜町教育委員会や、色々な団体が主催した課題作文が集められた『先浜中学校 生徒受賞優秀作品集』と、背表紙に箔押しで書かれていた。
 宝蔵美代の名前は『文集 先浜』には載っていなかった。課題作文の作品集から宝蔵美代の名前を見つけ出せるとは、もともと思っていなかった。ここにも宝蔵美代の名前はないと確信しながら、昨年度の目次だけをざっと流し読みする。
 予想していた通り、宝蔵美代の名前はない。
 一昨年の文集を読むのは、時間の無駄だ。
 手にしていた作品集を棚に戻し、耕祐は呆けたように黒いビニールレザーの背表紙の列を見上げた。
 薄暗い色のじゅうたんに、顎から汗が滴り落ちる。裏地の厚いカーテンが閉じられたまま窓が控えめに開けられている。図書室に入り込むのは、湿気の籠ったわずかな空気の揺らぎだけだ。
 蒸し暑い空気の中に、ぞくりとするものを感じる。自分の呼吸する音が、自分の耳に妙に障る。
 おかしいのは文集か、それとも自分の記憶か。
 宝蔵美代がずっといたとするならば、文集に名前があるはずで、その一方で、仮に文集ができ上がった後に転校して来たとするなら、文集に名前がないことの説明にはなる。
 そうだとして――
 背後から、大人の足音が近づいてきた。
 司書の先生だろう。
 もうこれ以上は、今は図書室にはいられない。
 耕祐は視線を伏せて司書の先生とすれ違い、廊下へと急いだ。
 『花のワルツ』が、まだ流れている。
 
 二年六組の扉も開けられたままになっていた。
 隣のクラスの生徒が廊下を掃いているというのに、二年六組の廊下を掃除しているはずの同級生の姿はない。耕祐は秀範と同じく、教室の掃除担当だった。佐々岡先生に怒られるか、秀範か佐緒里になにか言われるかとびくびくしながら戸口を抜け、耕祐はぽかんと二年六組の教室を見回した。
 誰も、いない。
 動いているのはカーテンだけだ。開け放たれた窓から吹き込む風で、呼吸する肺胞のように、束ねられたまま音もなく膨張と収縮を繰り返している。
 逆さまにした椅子を乗せた机が、教室の後ろ半分に押し込まれた状態のまま、掃除が中断していた。机にほうきが立てかけられていて、ちょうど床を掃き終えたところらしい。
 動かされていない教卓に近づいて、座席票を改めて確かめる。
 窓際、後ろから二番目。
 そこが、宝蔵美代の席だった。
 刺激をともなって違和感が脳に伝わる。
 耕祐の記憶と宝蔵美代の名前に、どうしても溶け合えない軋みが生じてしまう。
 ゆっくりと、教卓に貼られた座席票から宝蔵美代の席に、耕祐はゆっくりと視線を定めた。
 チャンスだった。
 確かめなくてはならない。
 おかしいのは、耕祐自身の記憶なのか、宝蔵美代の存在なのか。
 繰り返し再生でずっと続いていた『花のワルツ』が、唐突に途切れた。
「!」
 耕祐は動きを止め、黒板の中央上にあるスピーカーに視線を走らせた。
 教頭先生の声が聞こえた。別の学年の教師を呼び出す、ただの校内放送だった。監視カメラがついているわけでもないのに、誰かに見られているような気がしていた。わけもなく、耕祐はほっと溜息をつく。
 校内放送が終わっても、『花のワルツ』は流れなくなった。
 視線を宝蔵美代の机に戻し、汗ばむ手のひらを制服のズボンで拭う。
 足音を立てないようにゆっくりと近づき、宝蔵美代の机に手を差し込んだ。
 机の中で、耕祐の指が空を切る。
 なにも入っていない。
 次は鞄だ。
 この瞬間を見られたら、自分は終わる。
 なんでこんなことをしている、今すぐその鞄から手を離せ、宝蔵美代の机から離れろという声が、耕祐の耳の奥で聞こえる。
 指先に硬いものが触れた。
 伝わってくる罪深さの奥に、一度こういったことをやってみたかったんだという、黒い欲求が見え隠れする。
 誰かが見ている前でこんなことはできない。理由がどこにあれ、同級生の女子の鞄をあさることなど、普段の耕祐だったら思いつきもしなかった。
 それがたとえ佐緒里のものだとしても、だ。
 だが今は違う。調べなければならないことが存在する。
 そう、自分を強引に正当化させた。
 耕祐は指に触れたそれを、人差し指と親指でつまんで引き出した。
 ファイルだった。
 どうしてこう、女子の持ち物は、発色のはっきりしないパステル調の色ものばかりなのだろう。
 几帳面に折りたたまれた、給食だよりと自習用のプリントが挟まっていた。
 広げようと両手で持った瞬間、テンポの速い足音が廊下から近づいてきた。視界の片隅で氏名欄に書かれた丁寧な字が見えたが、耕祐の探索はここで終わりを迎えた。
「耕祐っ!!」
 鋭い声が飛んだ。
 振り返った勢いで足が机にぶつかった。机の脇にかけられていた宝蔵美代の鞄が床に落ちた。ノートや教科書が床に散乱しているが、目を向けることは耕祐にはできなかった。
 声の主に、耕祐は素早く顔を向けた。
 佐緒里だった。
 持っていた真新しい雑巾の束を教卓に叩きつけるように置いて、佐緒里は教壇の上から耕祐を睨みつけた。
「なにを、あんたそこで――美代!」
 廊下に向かって叫んでから、佐緒里は耕祐に向かってずかずかと歩み寄り、耕祐の開襟シャツの胸倉を強く掴み上げた。
「掃除サボってたわね」
 目を見ることができずに、耕祐は佐緒里の喉元を見た。第一ボタンが外され、制服のリボンがわずかに緩められていて、白い首筋に、何本かの髪が汗で張り付いている。ずっと掃除で動き回っていたのだろう。
「も、戻って来ただろう」
「なにしてたの、今までどこで」
「佐緒里には関係な――ぐわっ」
 襟を締め上げる佐緒里の手の甲が、耕祐の喉を圧迫している。耕祐の顎が、ぐいぐいと持ち上げられる。
「なにその言いかた」
「――離せよ!」
「痛っ!」
 たまらず、耕祐はファイルを持った手で佐緒里を振り払った。
 佐緒里の制服のリボンに引っ掛かり、そのファイルが机が押しやられた教室の床に音を立てて落ちた。
「なに持っていたの!?」
 パステル調のファイルを拾い上げ、佐緒里はそっと中を開いた。
 綴じられていたプリントに宝蔵美代の名前を見つけるなり、佐緒里は表情をこわばらせた。
 ファイルを閉じて、佐緒里が耕祐を睨んだ。
 もう言い訳もできない。
「あんたね」
 じっと見据えてくる佐緒里から視線を外すことができず、耕祐はただ後ずさった。
 立てかけられていたほうきが耕祐の背中に当たり、大きな音を立てて床に倒れる。
「なにしてたのよ」
「調べてたんだよ」
 耕祐は言ってしまってからあっ、と顔をしかめた。
 思わず口が滑ってしまった。『図書室で』と付け加えなかった。これでは、宝蔵美代の鞄を調べていたと自白したようなものだ。
「だからなにをよ」
 佐緒里は追及を緩めない。
 笑っている佐緒里を、ここしばらく見ていないなと、耕祐は場違いなことを思いついて沈む。
「……関係ないだろ」
「女子の鞄あさっておいて、関係ない?」
「――佐緒里?」
 宝蔵美代が佐緒里の横に立った。
「こいつ、美代の鞄、あさってたわよ」
 毒を込めに込め、佐緒里は吐き捨てた。
「――!」
 宝蔵美代は目を大きく見開き、耕祐は顔を蒼白にして、それぞれ佐緒里を見た。
「信じられない」
 ぼそりとつぶやいた宝蔵美代が、自分の席に近づいた。
「なに考えてるの?」
 鞄を開いた宝蔵美代を、耕祐はただ立って見ていた。
「耕祐!」
「なんだよさっきから!」
「あんたね!」
 佐緒里は背後から耕祐の肩を掴んだ。
「ひとの鞄あさっておいてなにその態度!?」
 正論だった。
 耕祐に反論できる言葉はない。
「謝りなさいよ!」
 無意識に握られていた耕祐の両手の拳の、わずかに伸びだしてた爪が掌に食い込んでいる。
 声を荒らげているのが宝蔵美代ではなく佐緒里だという点が、少しだけ引っかかる。
「――あの」
 美代は耕祐を無視した。
 謝ろうとした耕祐の目の前で、美代が背中を向けてしゃがみ込んだ。
 よく聞き取れない声でぶつぶつとつぶやきながら、教科書やノートを鞄に中身を戻している。
「なに黙ってるの、ほら謝りなさいって」
「わかってる!」
 しゃがんだ宝蔵美代の背中に、耕祐はじっと視線を落とした。
 謝るとかそういう以前に、耕祐には宝蔵美代に、聞きたいことがあった。
 いったい誰なのかということ。聞いたら聞いたで、また変なものを見る目を向けられるとはわかっていたが。
 動こうとしない口を無理に開こうとして、宝蔵美代が手にしたものを見て、耕祐は動きを止めた。
 白く薄い紙袋が見えた。
 薬局で渡される、処方された薬を入れる紙袋だ。
 素早く鞄に戻そうとした宝蔵美代の腕に、耕祐は半ば神経だけで反射して手を伸ばした。
「いまの」
「なにするの!」
「なんだよそれ!」
 そこに達筆な手書きで書かれていた名前を耕祐は見逃さなかった。
 藤曽――。
 ここまで見えたところで、宝蔵美代は耕祐の手を振りほどいた。
 ほんの二文字しか見えなかったが、耕祐の頭の中で、なにかが急速に循環を始めた。そしてすぐさま、傷口から溢れる血のように、頭の中にずっと引っかかったままだったその名前を、耕祐は思い出した。
 藤 曽
 藤曽根佳代。
 確か――
 名前だけは一瞬で思い出したのに、外見も声も、いつ、どこで会ったのかも、全然思い出せない。
 耕祐の体内に不快感が充満する。わずか数日前までなら、その名前と、その名前の人物の外見を憶えていて、なんらかの関わりがあったはずだと思うのに。どうして思い出せない。必死に一夜漬けしたはずの公式が、いざ本番の試験になってまったく出てこないのと同じく。
「おい、見せろよそれ!」
「きゃっ!?」
 小さく悲鳴を上げた宝蔵美代の手から、耕祐は鞄を奪い取った。
 次の瞬間、背後から肩を掴まれた。
 佐緒里の細い指が、強い力で耕祐の肩に食い込まれた。
「いい加減にして!!」
 風通しのよくなっていた二年六組に、平手打ちの澄んだ破裂音が響いた。
 耕祐の目に火花が飛んだ。たまらずぐらりと傾き、奪い取った鞄を落とした。
 耕祐の頭の中で、ずっと押さえていたなにかが外れた。
「なんでお前がいちいち絡むんだよ!」
 耕祐は佐緒里を睨みつけた。
 急に反攻に出た耕祐を見る佐緒里の目に、わずかに怯えが浮かぶ。
「み、美代の」
 佐緒里は耕祐を見たまま、肩を上下に二往復させた。
「美代のなにが、そう、気に入らないのよ!」
「だから――」
 そこまで言って、耕祐は佐緒里を睨みつけたまま口をつぐんだ。
 いたはずの同級生の誰かがいなくなって、同じ席に宝蔵美代と名乗る女子がいる。
 だめだ。
 言えるわけがなかった。
 順を追って説明しようを考えを巡らせても、どの流れ図の先でも結論が出ない。
 どこから、なにから、どう、説明すればいいのか。
「あたまおかしいんじゃないの」
 耕祐の頭の中でなにかが振り切った。
 そうつぶやいたのが宝蔵美代だと分かるまで、熱暴走を始めていた耕祐の頭の中は時間を要した。
 物事には必ず、越えてはいけない領域というものが存在する。わかってはいたが、それを思い返せるほどには、耕祐は冷静ではなかった。
 だから、耕祐は思わず叫んだ。
「誰なんだよおまえは!!」
「なにをしているの」
 佐々岡先生の声が聞こえた。
 使い捨てのポリエチレン手袋や雑巾や拭き掃除用の洗剤を手にした二年六組の生徒達を引き連れていた。
 内容物が床にまき散らされている鞄。
 しゃがんだまま、涙を浮かべた目を大きく見開いている宝蔵美代。
 顔を紅潮させ、肩で息をしながら立っている志賀佐緒里。
 そして、それらの中心で、片側の頬に手形を付け呆然としている尾松耕祐。
 佐々岡先生はそれらを一つ一つ見て、すぐさま結論に至った。
「尾松くん」
「はい」
 佐々岡先生は耕祐に向かって、わずかに目と顎を動かして見せた。
「ちょっと」
「はい」
 自分は確信犯だ。悪びれることはなにもない。
 耕祐はそう思うことにした。
「……他のみんなは、掃除を続けていて。終わったらそのまま帰っていいからね」
 何事かと好奇の視線を向ける二年六組の生徒を残して、佐々岡先生と耕祐が廊下へと出ていく。
 掃除を終えた先浜中学校の生徒達が、再び動き始めていた。
 昇降口へ向かい、そのまま下校する生徒。
 ジャージに着替えて部活動に向かう生徒。
 廊下の壁や窓に背をもたれかけて、なにかを話し込んでいる生徒。
 薄暗い照明の、廊下を挟んだ職員室の向かい側に、会議室と資料室を兼ねた部屋があった。校舎の北側、職員用の駐車場に面しており、普段は施錠されている。生徒が気軽に足を踏み入れる場所ではない。
 耕祐は、そこに入るよう佐々岡先生に促された。
「尾松くん」
「はい」
 入口で立っている耕祐に、佐々岡先生は椅子を指し示した。
「座りなさい」
「はい」
 スチール製の棚に囲まれた長机とパイプ椅子の打ち合わせスペースに、佐々岡先生と耕祐が腰を下ろす。
「――尾松くん」
「すみませんでした」
「こら」
 真剣な表情で、佐々岡先生は耕祐を正面から見ている。その視線に耐えられず、膝の上で硬く握り締めた拳に耕祐は視線を落とした。
「話は最後まで聞きなさい」
「すみません」
 下を向いている耕祐の反対側から、息を吐く音が聞こえた。
「――まだ、ジョギングしているの?」
「え」
 思わず、耕祐は顔を上げた。
 なぜ、今、その話をするのか。
 なぜ、佐々岡先生がそのことを知っているのか。
「あ、はい」
「一人で?」
「はい」
 佐緒里がしゃべったのだろうか。
 雅史と秀範には話したことがあるが、それ以外で知っているのは佐緒里だけのはずだった。
 返事をしてしまってから、耕祐は自分の制服のズボンに視線を戻した。
 質問の意味が、分からなかった。
 一通り説教されて、さっさと終わるものだと思っていたのに。
「祭の楽隊は、どうなの?」
「どう、とは」
「大変なんでしょう? 練習」
 そういえばこうして佐々岡先生と話をしたことなんかなかった。雑談からなにかを引き出そうとしているのだろうか。なにかの意味があるのか、耕祐には理解できなかった。
「練習ですから、それは」
 佐々岡先生が声を出すまで、やや間があいた。
 そっと耕祐が視線を上げると、佐々岡先生は苦笑を浮かべていた。
「尾松くん、てさ――」
 耕祐は内心身構えた。
 佐々岡先生の、じっと見てくる目の奥から、なにを言われるのか読み取れないか、探ってみる。
「ああいうことするとは、思ってなかったんだけどね」
 まったくその通りだった。
 原因は自分にはない。耕祐は断言するつもりでいた。
 続けて投げかけられるであろう言葉も、大方の予測通りのものだった。
「宝蔵さんと志賀さんと、前になにかあったの?」
 そして耕祐は途方に暮れた。
 あったとかなかったとか、そんな問題ではない。
 長机の上で両手を組み合わせていた佐々岡先生が、すっと息を吸った。答えない耕祐が、その質問を肯定したと受け取った。
「とにかく」
 一度なにか言おうとして、佐々岡先生はぐっと息を呑みこんだ。ただ眉根を寄せ、ため息をついた。
「いいわね。すぐに志賀と宝蔵さんに謝りなさい」
 耕祐には反論できる材料がない。
「できるだけ早い方が、傷口が悪化しないと思うな」
 佐々岡先生はなにか勘違いしているような気がしたが、耕祐は素直にうなずくことにした。
「はい」
「それともう一つ」
「――?」
 顔を上げた耕祐を、佐々岡先生はまだ、じっと見ていた。
「尾松くん、花火大会には来なかったわね」
 耕祐はぎくりとした。
「用事でもあったの?」
「よ、用事、ですか?」
「坂巻君や千葉君と、一緒に来ると思ってたんだけど」
「え、あ、その……」
「警察から連絡が回ってきたのよ」
「――!」
 平常心を装わなければと思った時点で、なにもかもが既に手遅れだった。
 表情に出てしまったのは、佐々岡先生の目を見ればあまりにも明らかだった。
「中高生らしい複数の人物が、大久間川信号場に立ち入った、ってね」
 幽霊なんじゃないですか?
 そんな冗談を口にしようものなら。
「あなたなの? まさか」
 ゆっくり三つ数えて、耕祐は素直に頭を下げた。
「すみませんでした」
「謝るんじゃなくて。そうなのか、違うのかって、聞いてる」
「その通りです」
「他に誰がいたの」
 耕祐は押し黙った。
「複数の人物、らしいんだけど」
 思い出していた。
 ただ、どう言えばいいのか。
 たった今の、佐々岡先生の一言で、また一つ、石に刻まれた太古の文字が解読されたように、耕祐の頭の中で過去が再構築を始めていた。
『大久間川信号所』と、藤曽根佳代。
 花火を、一緒に見ていた。
 かもしれない。
「わたしが調べなきゃならないのかしら」
「いえ」
 正直に言えるのかどうなのか。耕祐は佐々岡先生に、そう問い詰められていると察した。
 別の誰かに、つい最近も似たようなことを聞かれたような気がしていた。
 ――本当のこと、話せる人?
 誰かがそう、耕祐自身に聞いたことまでは思い出した。
 誰の声だったのか、記憶が今一つ定まっていない。
 目を覚ました直後にははっきりと覚えていたはずの夢が、時間がたつにつれて頭の中から揮発していくような感覚。
 耕祐は腹をくくった。勢いをつけて背筋を伸ばし、真正面から佐々岡先生の目を見た。
「藤曽根佳代さんです」
 佐々岡先生が返事をするまで、また、やや間があった。
「――誰」
 予想通りの反応、に見えた。
 耕祐は下を向き、考えるだけ考え込んで、顔を上げる。
「同級生の、女子です」
 じっと耕祐を見据えていた佐々岡先生が、やがて椅子を引いた。
 立ち上がって窓際へ歩き、ワイヤーの入った分厚いすりガラスの窓を開けた。
 スカートのポケットから一ミリのメンソールを取り出し、くわえた。ガスライターの点火スイッチを押す、カチという音が、耕祐の予想以上に大きく響いた。
 ここは禁煙ではないのかという指摘なんか、できる雰囲気ではない。佐々岡先生がタバコを吸う人だということも、たった今、この場で初めて知ったくらいだ。
「で」
「はい」
 何度も窓の外を気にしてから、佐々岡先生は煙を窓の外に吐く。
「それ、なんていう漫画の登場人物」
「はい?」
「だからね」
 指先に挟んだ煙草を弾いて、佐々岡先生は灰を窓の外に飛ばした。何度もせわしなく吸い、三分の一も減っていないそのタバコの火を、唾で湿らせた指先で消した。
「誰なのよ、その、フジソネカヨ、ってのは」
「同級生の女子だって、僕言いまし」
 佐々岡先生は耕祐を見ていなかった。音をたてないようにそっと窓を閉め、鍵をかけた。
「だから、その名前をどこから引っ張り出してきたのよ」
 窓から耕祐に顔を向けた佐々岡先生の目と声に、隠しようのない苛立ちがにじみ出ている。
「二年六組の生徒にも、先浜中学校の全生徒七百十四人のどこにも、それだけじゃない、大久間郡の小、中、高、どこにも、そんな名前は見当たらないんだけど」
 佐々岡先生がなにを言っているのか耕祐が把握するまで、時間を要した。
「――!?」
「なのに、警察からの……」
 言いかけて、佐々岡先生は舌打ちした。
「――仕方ないわね、部外秘の情報だったんだけど」
「はい」
「わたしが言ったなんて内緒よ」
「はい」
「わたし自身も、フジソネカヨなんて名前、聞いたことなんかこれまでなかった」
 耕祐には言い返すことができない。
 当の本人ですら、思い出しているのは名前と、『同級生だったはず』というあやふやな記憶だけなのだから。
「それなのに、わたしはここ一週間で、フジソネカヨの名前を二回聞いた」
 佐々岡先生は吸殻を掌の中で丸めた。
「一回目は貞南警察署からの通知。『大久間川信号所不法侵入にかかる通知』」
 『不法侵入』と言う単語に、耕祐はぎくりとなった。
 当然のことと言えば当然のことだった。耕祐のしたことは犯罪なのだ。
「信号場近くの町道で、中学生のフジソネカヨと名乗る人物を事情聴取・安全指導した。車道の真ん中で、無灯火で自転車に乗っていたらしいわ。それと」
 佐々岡先生は吸殻を持ったままの手で椅子の背もたれを持ち、勢いをつけて座り直した。
「尾松くん。たった今言ったわね」
 佐々岡先生は、じっと耕祐の目の奥を見た。
「――変よね」
 耕祐は返事をせず、佐々岡先生の目を見返した。
「誰なの」
 耕祐には言いようがなかった。
 藤曽根佳代は二年六組の同級生、だったはずだ。
 ただの同級生の女子で、今、宝蔵美代が座っていた席にいたはずだ。
 それが、どういうわけか、存在そのものが根元から消えている。それとも、消し去られているのか。
 手がかりらしい手がかりと言えば、突然現れた宝蔵美代と、宝蔵美代の鞄の中に入っていた薬の袋だった。
 あの袋にはどういうわけか『藤曽根佳代』の名前が入っていた。
「あの――」
「なに」
 宝蔵美代のことを、言っておくべきだと思った。
「宝蔵、さんのことですが」
 控えめに、会議室の扉がノックされた。
 書類の束を抱えた教頭先生が、廊下から中をのぞいていた。
「佐々岡先生、そろそろ打ち合わせ――」
「あっ、す、すみませんっ!」
 佐々岡先生は口調をがらりと変え、跳ねるように椅子から立ち上がった。
「今言ったこと、わかったわね」
「はあ」
 全然わからなかった。
「トイレにでも流してて」
 わずかに湿っている吸殻を耕祐の手に掴ませて、佐々岡先生は急ぎ足で廊下に出て、職員室に姿を消した。
 ぽかんと座っている耕祐と、わずかにヤニくさい会議室の空気を、教頭先生が交互に見ていた。
 全身が汗にまみれていた。
 廊下の空気の冷たさで、今さらのように耕祐はそのことに気付いた。
 とりあえずは、佐々岡先生に言われたことを、するしかなかった。
 とりあえず、耕祐はトイレに向かった。
 吸殻を流し、手を洗い、廊下に戻る。
 音楽室から、楽器の音が聞こえてくる。
 校庭からは、金属バットがボールを叩く音が聞こえる。
 いつもと変わらない、放課後の光景。
 階段を上り、二年六組の教室に戻る。
 掃除は既に終わり、整然と机の並ぶ教室に同級生の姿はない。
 自分の席に戻り、鞄を掴み、教室の後ろにある棚からトランペットを取り出す。
 新品を、つい最近に買って貰ったのだ。
 宝蔵美代の席にかけられていた鞄も、すでに無くなっていた。既に帰ったのか、それとも部活動に行っているのか。
 部活動に所属しているのか、出席しているのか、耕祐は知らないし、教えてくれそうな同級生も教室にはいない。
 耕祐は、自分以外に誰もいない教室を、無言で見回した。
 冷静になって見渡すと、こんな狭いところに四十人近くが集まって同じことを繰り返している日常が、どことなく不自然な気にもなってくる。
 窓が全て締め切られているせいで、七月のじめっとした空気が、ゼリー寄せのように四角く固められている。たったそれだけのことなのに、毎日通っている場所だとは思えなくなってくる。
 暑い。
 教室を出ようとした耕祐の耳から、それまで聞こえていたグランドの声と楽器の音が遠ざかった。
 耕祐は足を止めた。
 何気なく鞄を持った手を耳元に近づけた途端、耳鳴りが始まったのはその時だった。
 耕祐は足元に荷物を降ろした。両手の人差し指を耳穴に押し当て、耳鳴りの度合いを図ろうとした。
 頭の中に耳鳴りが充満する。なにも聞こえなくなる。
 ――貧血?
 不吉なものを感じながら、その場にうずくまって足元の床に手をつく。汗が止まらない。目をつぶった。そのはずなのに、頭の中で視界が回転する。
 きこえてる?
 耕祐は目を開いた。
 耳鳴りの中に人の声を聞いたような気がして、顔を上げる。
 校内放送のスピーカーが視界の中心で見下ろしていた。
 耳鳴りが収まる。
 誰かがすぐ横を走り去っていったのかと錯覚した。
 開け放されている廊下の窓から吹き込む風に、耕祐は包まれた。
 汗の止まった全身が容赦なく冷やされる。
 ぞくりとする。
 耕祐は足元に降ろしていた鞄とトランペットのケースを再び持った。
 吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。
 校庭から、掛け声が聞こえる。
 音楽室の窓は、全て開けられている。
 先浜中学校は吹奏楽コンクールの課題曲と自由曲を、練習しているようだった。
 地区大会は大差をつけて通過した。佐緒里からではなかったが、誰かが言っていたのを耕祐も知っている。
 それぞれの部員の自由気ままに奏でる、曲の一部分や半音階が盛大に聞こえてくる。金管楽器の音を耳にするだけで、耕祐は思わず身構えてしまう。先浜金管隊の練習でも、同じような音を出すし、同じような音に包まれる。
 学校指定の鞄とトランペットを抱えたまま、耕祐は開け放たれた扉をくぐり、音楽室に入った。
直後、はっきりとわかるほど音色の数が減った。
 突然入ってきた部員でもない耕祐に、不審げな視線がいくつも投げかけられる。
 そして、耕祐が佐緒里の姿を見つけて歩き出すのを見て、いかにも無関心を装うかのように、楽器の音が戻りだす。
 先浜中学校の生徒の大多数は、先浜金管隊を『古くさく、町の住人がなんとなくやっている集まり』と思っている。
 特に吹奏楽部員には、耕祐のような現役の中学生が、吹奏楽部ではなく、先浜金管隊で楽器を演奏することに、全く理解を示さない者が多い。
 だから、いきなり楽器を持って姿を現した耕祐に向けられた吹奏楽部員と楽聖の肖像画の視線は、実に冷たいものが込められていた。
 ただでさえ、今は部活動の最中なのだから。
 学校指定の鞄を腕に通し、トランペットのケースを両手で抱え、耕祐は身を屈めて佐緒里に近づく。佐緒里は出入り口から反対側、音楽室の裏手にある空地に近い、窓際の席に座っていた。音楽室を横切らないことには、佐緒里には近づけない。
 音楽室の後ろの壁際に並べられたティンパニの横に、吹奏楽部顧問、音楽教諭の吉国先生が立っていた。耕祐の姿を見付け、迷惑そうに視線を向ける。
 手短に済ませなければならない。
 ざっと見ただけでも、この音楽室には四十人を超す吹奏楽部員であふれかえっている。敵に回すわけにはいかない。
 楽器ケースに斜めに楽譜を立てかけて、メトロノームの刻む音に合わせて、佐緒里は耕祐のことなど全く無視して、フルートを吹いている。
 欠席してはいなかった。
 耕祐は安心すると同時に、ぐっと緊張した。
 佐緒里に限らず、どの吹奏楽部員も、背筋を正しく伸ばして楽器を構えている。これだけは、先浜金管隊と共通している。全員が学校指定のジャージ姿なのは、走り込みか筋力トレーニングをした後だからなのかもしれない。
 耕祐が真横に近づいて、佐緒里はようやく、顔を向けた。
「なに」
「いや、その」
「いま部活中なんだけど」
 耕祐は頭を下げた。吹奏楽部員の、好奇の視線が集まる。
「さっきは悪かった」
 佐緒里は表情を変えないまま、楽器ケースに乗せていたウェスでフルートのキーを拭いた。
「なにそれ」
「え」
 投げつけるようにウェスを机に戻し、佐緒里はメトロノームを止めた。
「そんなことで、うちの部活を冷やかしに来たわけ?」
「冷やかすとか、そんな」
 耕祐は佐緒里を見た。
 本気で怒っていたら、いつもの佐緒里なら、この場からいなくなるか、頭ごなしに怒鳴ってくる。
「ただ、僕はその、佐緒里に謝らなきゃって」
「佐々岡先生に?」
 そうしなさいって言われたからなんでしょう。
「――それもあるけど」
「ふーん」
 楽譜をめくろうとして、佐緒里は耕祐の抱えている楽器ケースに気付き、目をやった。
「Bach?」
 一目で、楽器のメーカーを言い当てられた。
「こないだまで、違ってなかった?」
 今までの擦り切れたケースではない、真新しい皮革調のケース。
「隊員が増えて、楽器が足りなくなってきて」
「ふーん」
 じろじろと見てしまう佐緒里。
 エントリーモデルのようではあるが、決して気軽に買える金額ではない。
「お金、持ってるのね」
「その……」
「買ってもらったんだ」
「ま、まあ、うん」
 自力で買えなかったのかと咎められているようで、耕祐は胸を張ることができない。
 小遣いを減らされたとか、そういった経済事情を、耕祐はあまり口にしたくなかった。
「だから、何度も言うけど」
「耕祐、そんなことよりさ」
 佐緒里は正面の楽譜を見たまま、フルートを自分の膝に置いた。
「わかったから、あんただって、今日も練習なんじゃ――」
 フルートを口元まで運び、ぐっとマウスピースを唇に押し当て、楽器全体を回転させながら位置と角度を調整する。
そしてちらりと横を向いた佐緒里の目の前に、耕祐の姿はなかった。
「あれっ」
 音楽室を飛び出し、渡り廊下を全力で走っていく足音が、かろうじて聞こえた。
「……なんだあの馬鹿」
 メトロノームに手を伸ばしたところで、佐緒里は突然、背中に衝撃を受けた。
「――痛った」
 顔をしかめ振り返ったその先に、第一フルートを受け持つ先輩部員が立っていた。
 顔が紅潮するのを、佐緒里は隠せなかった。
 先輩部員は、なにも言わなかった。
 腹の立つ笑い声を残して、先輩部員が隣の席に戻っていく。
 休憩時間以外、私語は控えなくてはならない。
 宝蔵美代の後姿が、見えたのだ。
 昇降口に向かっている。そう直感して、耕祐は音楽室から飛び出した。渡り廊下を走り、廊下にいる生徒をかわしながら昇降口へたどり着く。
 学校指定の上履きや外履きが、踵を見せて整然と並ぶ前で、耕祐は荒い息に肩を上下させた。
 二年六組の下足入れから、宝蔵美代の靴を探す。
 下足入れは出席番号順になっていて、ここへ来て、耕祐は宝蔵美代の出席番号が何番だったか、知らないことを思い出した。
 教室に戻って、出席番号が何番か調べるか――
 耕祐は考えを打ち消した。
 もう、学校を出ているかもしれないのに、そんなことを調べても無駄かもしれなかった。
 先浜金管隊の練習が始まる時間も、近づいている。
 自分の下足入れに手を入れようとして、それが立っている誰かにふさがれていて、その顔を見た耕祐の喉から変な声が出た。
 宝蔵美代が、昇降口のすのこに立っていた。
 制服姿だが、文化部に所属しているというわけでもなさそうだ。
 宝蔵美代は学校指定の鞄だけを手に提げ、じっと耕祐を見ていた。
 その表情が暗い。
「なんの用」
 なにも言っていないのに、なにもしていないのに、宝蔵美代は耕祐が追っていたことを察していた。
 体の芯に突き刺さる、宝蔵美代の冷たい声に、耕祐の口は動くことができない。
「なんだっていうの」
 とっさに出まかせを言うこともできず、耕祐は吸い寄せられるように、ただ宝蔵美代の目を見た。
 中学生の目をしていない。
 見た目はどう考えても中学生の同級生なのに、その目だけは、長年ものを見つめ続けてきた、疲れのようなものが浮かんでいる。
「邪魔」
 耕祐はとっさに宝蔵美代から離れた。
 力を籠めすぎたせいで、足元のすのこが、変な音を立ててずれた。
 外履きに履き替えて、宝蔵美代は昇降口を出て行った。
 音楽室から、吹奏楽部の合奏が聞こえてくる。
 
   *
 先浜金管隊の練習会は、準備運動から始まる。
 膝の屈伸から、各関節の曲げ伸ばし、軽いジャンプで締めくくって、それからようやく、楽器の音出しに入る。
 夏休みが、夏祭りの本番が近付いてきたからだろう。一日ごとに、練習会に参加する数は増えているような気がする。見物している通行人も、一人や二人ではなくなっている。
「よろしくお願いします!」
 駐車場に楽器別に分かれて整列し、バンドリーダーや、幹部隊員に一礼する。耕祐の並ぶトランペットパートの出席者は、久しぶりに十人を超えている。これから本番にかけて、出席する隊員が増えていく。
「皆さんご苦労さまです! 今日は雨が降りそうです、降りだしたらすぐに練習会場を移します」
 ビールケースに立つバンドマスターは、年齢を感じさせない太い声で、今日の訓示を言った。
「この暑さに参らないよう、水分はしっかり取ってください。具合が悪くなったら、即、申告すること」
 厳しい練習とは、精神力を鍛えることでも健康を害することでもない。
 八十歳を超すバンドマスターが、自嘲気味に口をゆがめた。
「この自分が、一番危ないという意見もありそうですがな」
 整列した隊員から笑い声が上がる。
「それでは、行進練習から始めます。整列!」 
 先頭に立つバンドマスターの笛に合わせ、整列した隊員が楽器を抱いて背筋を伸ばす。
 整列した隊員の両脇に、指導役の幹部隊員が丸めた新聞紙を持って立つ。時間と場所さえあれば、ある程度なんとかなる楽器の練習とは異なり、行進は人数が揃わないと練習が成立しない。
 先浜金管隊の行進練習は、隊員が楽器を持った状態で行うのが伝統だ。ステージドリルのような派手な動きも、ギミックプレイもない、ただひたすら、歩調と脚の動きを合わせることに特化した、普通の行進だった。『運動会の練習』と呼んでいる隊員もいる。
 笛の音とともに、バンドマスターが片手を高く上げた。
 曲の始まりと全く同じ動きで拍子を空打ちし、スネアドラムソロのマーチが始まる。マーチを打つスネアドラム担当は毎年交代する。今年の担当は、町内に住む女子の高校生だった。いつ、どれほど練習しているのかと思うほど、正確で軽快なスネアドラムの音が、駐車場全体に響き渡る。
 次の笛で、整列した隊員がその場で足踏みを始める。
 練習を積み重ねてきたとはいえ、身長も筋力も違えば足並みにも個人差がでる。練習会に出席している隊員の年齢層も、小学生から七十代までと、相当の開きがある。歩調が揃うまで、延々と足踏みが続く。
 どうしても合わせられない隊員の真横で、丸めた新聞紙を握った幹部隊員が並んで行進する。歩調を合わせながら、新聞紙の先端と、身振り手振りで、行進のくせを矯正していく。膝が高すぎれば膝に、爪先の角度が足りなければ爪先に、幹部隊員の丸めた新聞紙が当たる。幹部隊員に気をとられて視線を動かすと、それでまた丸めた新聞紙が飛んでくる。
 歩調が揃いだした頃になって、幹部隊員がバンドマスターの横に走り、合図を送る。
 バンドマスターが、背筋を伸ばして正面を向いたまま、再び笛を吹く。
 足踏みから、行進へと移る。
 駐車場を大きく周回するように、行進が始まる。
 本番の夏祭りでは、神社の境内から出発し、末広商店街の間を往復する。駐車場の中だけでは、本来ならスペースが足りない。
 だが公道を使うには警察の許可が必要だし、河川敷公園のような広い場所を練習に使うとなると、そこまで移動するのがつらい隊員も出てくる。
 やむをえず、行進の練習は江先稲荷神社の駐車場を使わざるを得なかった。
 行進が始まると、そこでまた。腕や足の振りにばらつきが出る。
 湿度の高い、今にも降り出しそうな曇り空の下、行進の練習が続く。
 駐車場を二周したところで、バンドマスターが笛を吹き、行進を止めた。
 ずっと続いていたドラムマーチが止まり、これまで聞こえなかった、自動車の走る音や、見物している人の声が、耕祐の耳に飛び込んでくる。ぱらぱらぱらと、控えめな拍手も聞こえるが、ここで顔を向けてはいけない。丸めた新聞紙が飛んでくるかもしれないから。
 バンドマスターがくるりと振り返った。
「休憩! 次の練習は十五分後に始めます!」
 その一言を、ずっと待っていた。
 耕祐は息を大きく吐いた。今日の練習会は、やっと前半が終わったばかりというのに、すっかり体力を使ってしまったような気がする。
 休憩が追われば、行進しながら『エンゼル節行進曲』の練習になる。
 *
 江先稲荷神社の境内と参道に並ぶ水銀灯が、ほんのわずかに明滅し、白い石畳の通りを青白く照らし始めた。
 空はまだ、真昼の余韻を残してはいるが、空を覆う雲のせいで、日暮れが早く感じられる。
「それでは、本日の練習会はお開きとします。ご苦労さまでした! 解散!」
「お疲れ様でした!」
 練習会の最初と同じように、楽器別に整列し、バンドマスターと幹部隊員に一礼する。
 停めていた自転車や乗用車に、隊員達が向かっていく。
 耕祐は、徒歩で自宅に向かう。全身が汗で濡れていた。
 早く着替えたかった。
「尾松くん!」
「あっ、はい」
 幹部隊員に呼ばれて、耕祐は足を止めた。
 楽器ケースを提げた隊員が、十人ばかり集まって立っていた。会社勤めの人は少なく、ほとんどが小中高生だ。その中心に、今まで丸めた新聞紙を持って歩きまわっていた幹部隊員が、フレンチホルンのケースを持って立っている。
「カラオケ、行かないかい?」
 ジュースをおごってもらえるのかもしれないという淡い期待は、すぐに消えた。
 幹部隊員は練習会の間、自分の楽器の練習をする時間がない。江先稲荷神社の参道にあるカラオケボックスに行って、
 そこで楽器の練習をしようというのだ。
 耕祐は考え込んだ。
 当然、用事のある隊員も帰りたい隊員もいる。この誘いは強制ではない。断ったところで、なんの問題もない。
「じゃあ、先に行っているぞ」
 耕祐の返事を待たず、幹部隊員を先頭にして、隊員達が歩き始めた。
 家に帰ったところで、なにをするというわけでもない。
 ごろごろして時間を食いつぶすのが落ちだった。
 それならば。
 少しだけ遅れて、耕祐は神社の参道を走り始めた。
「あっ」
 何気なく神社の鳥居を見ようとして顔を向けたその視線の、予想よりもずっと手前に、見た顔がいるのを佐緒里は見つけた。
 何人もの中高生に混ざって、耕祐が参道のカラオケボックスに入っていく。小学生らしき、線の細い小柄な人影も混ざっている。
 佐緒里は足を止めた。そして眉をひそめた。
 生徒だけでカラオケボックスに入ることは、学校が禁止していたはずだ。
 耕祐は、なにをしているのだ。
 全校集会で教頭先生が言っていた。どのカラオケボックスにも、教育委員会から通知が届いていて、『生徒だけで来店した場合には受付をせず、即時連絡をお願いしている』はずなのに。
 後ろから走ってきた自転車にベルを鳴らされ、じっと立っていた佐緒里が慌てて道の端に移る。
 聞きつけられるはずもないのに、佐緒里は足音を立てないように、そっと足を動かしてカラオケボックスの前に来た。
 分厚いガラス戸にも窓ガラスにも、カラオケ機材のポスターや夏祭りのポスターがべたべたと貼られている。外からでは、中の様子は全く分からない。
 吸い込まれるように、佐緒里はガラス戸を押した。
 ききすぎる冷房に寒さを感じるよりも早く、近所のおばちゃんの熱唱する演歌と手拍子が、両耳を圧迫する。
「っらっしゃいませえ」
 直前に入った耕祐達のために、人数分のおしぼりをお盆に並べていた店員が、佐緒里に目を向けた。
 佐緒里は、目つきの鋭い店員と目が合って尻込みした。
 あまり、柄が良さそうには見えない。
「斉藤様と、一緒っすか」
 斉藤様、って誰よ。
 先浜金管隊の幹部隊員の名字だが、佐緒里はそんなことは知らない。先浜中学校のジャージを着て、楽器のケースを持っていたから、受付の店員は、佐緒里も先浜金管隊の一員だと思い込んだだけだった。
「い、いえ、違います」
「――何名様ご利用すか」
「あ、いえ、別に」
「はあ?」
 受付の店員は、おしぼりを積み重ねる手を止め、警戒の眼差しになった。
「あ、えっと、違います。その」
 慌てて、佐緒里は受付と、その脇へ伸びている奥へ向かう通路に視線を走らせた。
 通路の奥に、赤と青の図形で表現された看板を見付け、ほとんど反射的に口を動かす。
「お、お手洗い、お借りできますか!?」
 このカラオケボックスには、大勢の団体客が入れる部屋が三つある。どの部屋も建物の一番奥、トイレよりもやや手前に並んでいる。
 トイレを借りる振りをして、佐緒里は通路を奥へと歩いた。
 耕祐達がどこへいるか、探すまでもなかった。
 廊下に人だかりができていた。
 何人かの中年女性が、防音扉のガラスに顔を寄せ、じっと中を覗き込んでいる。
 その扉の奥からは、カラオケとは全く異なった音色が聞こえてくる。
 中にいる人達がなにをしているのかは、すぐに分かった。練習の帰りに、歌って発散しているどころではなかった。
 『エンゼル節』の演奏。しかも吹奏楽。
「すみません、ちょっと」
 佐緒里は見物する中年女性達の隙間に割り込んで、防音扉のガラス越しに中を覗き込んだ。
 舌打ちをしそうになって、佐緒里はぐっと下唇を噛んだ。
 扉に背を向けて立っている人がいるせいで、中の様子があまりよく見えない。
 先浜金管隊は、壁に沿って部屋の中心を向いて立っていた。そしていつものように、板でも仕込んでいるかのように背筋を伸ばしている。
 聞こえる楽器の音は、トランペット、フレンチホルン、トロンボーン、テナーサックス、ユーフォニウム。
 そして、主旋律を奏でる篠笛と法螺貝。
 とくに、フレンチホルンの音がきれいに聞こえているような気がする。
 ただの民謡、ただの盆踊りと片付けてしまうのは簡単だった。それなのに。
 聞き入ってしまう。
 嫉妬するほど、演奏が丁寧で、集中力が張り詰めている。
 中年女性の顔を、佐緒里はちらりと見た。
 四人とも、完全に動きを止めていた。
 興味本位で眺めているようには見えない。
 おそらく、先浜金管隊の演奏する練習光景を、初めて目の当たりにしたのだろう。吸い込まれたような目で、ただ、じっと部屋の中の光景に意識を奪われている。
 佐緒里は再び、先浜金管隊に目を向けた。
 耕祐ではない、年配の男性の表情がかろうじて見える。
 背筋を伸ばし、薄暗い部屋の中でただまっすぐを向いて、フレンチホルンを演奏している。
 先浜中学校吹奏楽部は、自分は、ここまで演奏に集中していただろうか――
 中年女性の一人に、佐緒里は肩を押された。
 不満の目を向けようとして、その先をカラオケボックスの店員が通路を歩いて近づいてきた。
 佐緒里は、慌ててカラオケボックスの出入り口に足を向けた。
 演奏に集中していたから気付かずにいたが、外はすっかり暗くなっていた。涼しいとまではいかないが、外で練習した時間帯の、あの湿った空気の中に潜っていたような蒸し暑さは、もう感じない。
「お疲れ様でしたー」
「御馳走様でした!」
 最後に、一杯ずつジュースをおごって貰えた。
 カラオケボックスの外、参道に出た隊員達は、幹部隊員に一礼し、解散となった。
 隊員達と別れ、耕祐は一人、末広商店街を自宅へと歩いた。
 歩きながら、首をぐりっと回す。
 今日は本当に疲れた一日だった。
 学校を出てからずっと、文字通りの練習漬けだった。
 この体のだるさが、耕祐にはなんとなく、練習をしたんだという間違いない実感が伴う勲章のようで、嬉しかった。
 日の暮れた末広商店街は車の往来が増え、自宅や商店へへ向かう歩行者や自転車も多い。
 先浜中の生徒もわりと見かける――そう眺めた先の人影を見て、耕祐はつまづきそうになった。
 宝蔵美代がいた。
 二年六組の女子生徒二人に挟まれて、耕祐に背を向けて歩いている。宝蔵美代は自転車にまたがったまま地面を蹴り、他の女子生徒は徒歩だ。
 背中が見えているだけだが、なにかを話しているらしい。
 時折、宝蔵美代や同級生の上半身が大きく動く。
 楽しそうなことを、話しているように見える。
 昇降口で見せたあの表情のどこから、屈託なく笑うことができるのか。耕祐の頭の中に、宝蔵美代に関する情報が、ほとんどない事実を改めて思い知る。
 サドルにまたがったまま地面を蹴っていた宝蔵美代が、両足を地面に着けた。
 二人の同級生が、手を振って別れていく。
 同級生を見送った宝蔵美代は、自転車から降りた。
 車道と歩道を隔てるフェンスにもたれさせるように自転車を止め、鍵をかけ、前かごに入れていた学校指定の鞄を肩に通した。
 両手を髪に通してから、立ち並ぶ店の一軒に足を踏み入れる。
 耕祐もよく立ち寄る、個人経営の、小さな書店だった。
 入ればすぐに、顔を見られてしまう。
「――!」
 耕祐の脳裏を電流に似たものが走った。
 ここから全力で走れば、自宅まで四分で着く。玄関に鞄とトランペットを置いて、自転車で飛ばせば、最短で一分二十五秒くらいで戻れる。
 五分二十五秒間、宝蔵美代が書店にいれば、宝蔵美代を追跡できるチャンスだ。
 考えている場合ではなかった。
 突然走り出した耕祐に、歩道を歩く買い物帰りの親子連れが迷惑そうに視線を向ける。
 *
 反対側の車線を車に並んで姿を隠し、走り抜けながら書店の前を通り過ぎて確かめた。はっきりと見えていた。
 宝蔵美代は、まだ書店にいた。文庫本の並ぶ本棚で、どれにするか物色しているように、耕祐の目には見えた。
 耕祐は三軒分ほど距離をあけて、宝蔵美代が出てくるのを待つことにした。
 全力で自転車をこいできたせいで、呼吸がなかなか、平常に戻らない。
 肩ではあはあ息をしながら、耕祐は書店の青白い蛍光灯に照らされる末広商店街の歩道をじっと睨む。
 その耕祐に背後から肩を掴まれるまで、耕祐はその気配に気づかなかった。
「こら、尾松!」
「なにをやっているかっ!」
「は、はひっ!」
 声が裏返ってしまった。
 焼きごてでも当てられたかのように、耕祐は一瞬で気を付けの姿勢になり、襟元を正して回れ右で振り返った。
「ぼ僕はただ、自転車で買い物に来ていたところで、け、けけ、決してやましいとか、変なことは――」
 その耕祐の目の前にいたのは、いつもの二人の、見慣れた顔だった。
 二人の顔を見た途端に、羞恥心が耕祐の鼻と耳から溢れ始めた。
「指なんかさすなよ!」
「おまえ……!」
「最っ高に慌ててたよな、今?」
 耕祐は雅史と秀範を睨みつけた。顔が痛く、熱い。
 雅史と秀範は、両方ともサッカー部だ。泥だらけのジャージ姿で、耕祐を見てにやにやと白い歯を見せている。
 ほんのわずかな衝撃で笑い声を大爆発させそうな、実に幸せで苦しそうな目を、二人ともしていた。
「――なんだよ。なんの用だよ」
「そりゃ、こっちの台詞だ」
 くっくっと笑い声をこらえながら、雅史は耕祐に言った。
「なんでおまえ、隠れながらはーはー言ってるんだよ」
「おかしいのは、お前の方だぜ、耕祐?」
「う、うるさいなっ」
 耕祐は、ズボンの脇に沿わせていた両手から力を抜いた。
「いやほんとに、なにしてたんだよ」
 雅史に真顔で聞かれ、耕祐は視線を逸らした。
「い、いや別に。大したことなんかじゃ」
「志賀か?」
「違う!」
「なんだ、志賀をつけ回してたんじゃなかったのか」
「なんで!」
「おまえらも、つき合い長いよなー」
「い、いつ僕らがつき合っているとか、そういう!」
「はいはい」
 うろたえる耕祐を前に、きれいに日焼けした二人の同級生は、両生類のような声で含み笑いをただ漏らしている。
「どう見ても、不審者だぜ。耕祐」
「う」
「なにしてんのか知らないが、あんまりやりすぎんなよ」
「おくさんによろしくな」
「おまえらっ!」
 雅史と秀範は、にやにやしたまま末広商店街の脇道に消えた。
 宝蔵美代が本屋から出てきたのは、その直後だった。
 サドルのすぐ下にある鍵を解除して、買ったばかりらしいカバーの付いた文庫本を学校指定の鞄に入れ、前かごに鞄を入れ、自転車にまたがった。
 末広商店街を行きかう自動車の隙間に自転車を滑り込ませ、町の南へと走っていく。
 耕祐は尾行を再開した。
※本作品の続編につきましては、現在執筆中であります。完結しだい、当ウェブサイトにて発表いたします。もうしばらくお待ちください。(2013年9月12日現在)
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