エンゼル節行進曲


 
 ヒバリの鳴声が、朝靄の中に溶けていく。
 テンポの速い、甲高い鳴き声。
 鳥の声にまで、急かされているようだった。
『起点より0・5km』
 折り返しの目印にしているサイクリングコースの距離標識で、志賀佐緒里はいつものように立っていた。
 佐緒里の足は、その場で動き続けている。
 尾松耕祐が追いつくのを、足踏みしながらじっと見ていた。
 リズムを刻んで吐く息が、一瞬だけ白く飛び出し、瞬く間に空気の中へと消えてゆく。
 耕祐は焦った。
 今日も、待たせてしまった。
 機嫌が悪くならないか、気になっていたのだ。
 決して、耕祐が力を抜いて走っていたわけではない。
 地の体力が違うのか、それとも、走る動きに無駄があるからなのか。
 足の運びに合わせて吸う朝の空気が冷たく、喉の奥で痛い。
 四月もはじめの大久間川はまだ寒く、千代湾から川をさかのぼって堤防を乗り越えていく風は、今でもまだ、冬の匂いが強い。
 佐緒里に遅れること三分、耕祐はようやく、サイクリングコースの標識にたどり着いた。
 この四月になってから、佐緒里の走りがぐんと速くなった気がする。
 同じ小四の、佐緒里と耕祐で、体の成長の差がそれほどあるとは思えないのに。
 耕祐は両膝に手をついて、ぜえぜえ荒い息を吐く。
 佐緒里には、かなわない。
「コーちゃん」
 佐緒里が、足踏みを止めた。
 小石を踏む音が、小さく聞こえた。
「ん」
「あのね」
 顔を上げた耕祐の前で、佐緒里は思いつめた表情をしている。
 いかにも女子が好みそうな、グレー地に淡いピンクと水色の、ネズミなのかクマなのかよくわからないキャラクターがプリントされたスウェットを着ている。
 一方の耕祐は、先浜小学校指定のジャージを着ていた。濃紺に淡いブルーのストライプが入り、ご丁寧なことに 胸には、町の花ハマヒルガオを模した校章まで入っている。
 この服装のまま、耕祐は登校する。
「わたしね」
 今朝の佐緒里は、耕祐があまり見たことのない目つきをしている。
 なにかを我慢しているような、気に食わないことがあるけれども、なんとか我慢しているような、そんな目。
「ピアノ始める」
「ピアノ!」
「センセイがキビシくてね」
「――?」
 耕祐は両膝から手を離し、佐緒里を見て、背筋を伸ばした。
「朝も、練習しないと、なの」
 佐緒里の方が、四センチばかり身長が高い。
 耕祐は返事をせず、視線を逸らしたまま、ぼんやりと大久間川の川上を見た。
 頭の中で血液が脈打っている。
 大久間川は、右に大きくカーブして山際に隠れる。
 その近くで、製紙工場のいくつもの煙突が、盛大に白い煙を吐き出している。
 赤と白に塗り分けられ、鉄骨で補強された、ひときわ背の高い煙突が、他の背の低い煙突を従えているようだ。
 この堤防の上に整備されたサイクリングコースを、川上へ走って、橋を対岸に渡れば、製紙工場にたどり着く。
 工場の高い煙突と白い煙、工場全体を囲う広いフェンスが巨大な銀河戦艦に見え、敷地と外を隔てる長いフェンスが疾走する特急列車に見え、夜になれば、工場を照らし出すライトの明かりのせいで、まるで秘密基地のように見えた。

 ねえ、サっちゃん。
 いつかあそこまで、一緒に走ってみようよ。
 ちょっと遠いから、休みの日の朝、とかかな?

 佐緒里とそんな話をしていたのが、クラス替えで一緒のクラスになった、一昨年の四月のことだ。
 とても昔のことのように思える。
 あの時、佐緒里がなんと返事したか、耕祐は覚えていなかった。
 返事をしなかったのかも、しれない。
「朝も、練習しないと、なの」
 佐緒里は、同じことを繰り返した。
 耕祐が、ただぼんやりしているように見えたらしい。
 耕祐にはわかっていた。
 ――今日までか、一緒に走るのは。
 家のある方角を気にしながら、佐緒里が歩いて引き返しだした。
 おそらく、今日も、家に帰ったら練習を始めるのだろう。
 いつまでも二人で走り続けられるとは、思っていなかった。しかし、走り始めてから、もうすぐで丸二年になりそうだというときだった。
 二年近く、ほぼ毎日続いたものが、どのような形で終わるものなのか。
 耕祐は今まで、いろいろな想像をしていた。
 ケンカか。
 どちらかが引っ越すか。
 病気になるか。
 怪我をするか。
 ずっと続けられるかもしれないと、心のどこかで思っていたのも、事実だった。
 実際は、腹が立つこともがっかりする隙もないほど、あっさりと決まってしまうものだったのだ。
 耕祐と走るよりも、佐緒里はピアノを大事にする。
 ピアノのレッスンに、耕祐はいらない。
 たった、ただ、それだけのことなのだ。
 それ以上でも、それ以下でもない。
 こう結論付ければ、納得できるのだろうか。
「――ごめん」
 先になって歩く佐緒里の表情は、耕祐からは見えない。
「い、いやいや、サっちゃん、がんばってね、ピアノ!」
 不平の一言も出せない自分が、小さく、みじめだ。
 耕祐の心のどこかで、なにかが音も立てずに消えてなくなった。
 なにがなくなったのかは、耕祐自身にもわからない。
 なにがなくなったのかはわからないのに、なにかがあった跡が大きな空地になって、胸の中に重く広がっている。
 今まで占めていたなにかが消えたところが、理由もなしに痛む。
 だから、なにかが消えてなくなったと思うのだ。
 風邪をひき始めた時と同じだ。
 風邪をひいていない振りをすれば、風邪にかかったことをなかったことにできるのではないかと、実際には無理なのに思い込もうとするのと同じく。
 それに気づかれないように、気付かないふりをするように、耕祐はわざとらしくスピードを上げて走り出した。
 すぐ佐緒里に追いつかれ、苦もなく追い抜かれる。
 全力で走る耕祐を、簡単に抜き、簡単に引き離す。
 最近の佐緒里だったら、そのまま耕祐を置き去り、スピードを上げていた。
 それが、今日の佐緒里は耕祐との距離を開けようとしない。
 耕祐の直前で、背中まで伸びた佐緒里の黒い髪が、朝日を受けて、佐緒里の足の運びに合わせて、光りながら弾んでいる。
 佐緒里の吐く息の音が聞こえる。
 佐緒里の地面を蹴る音が聞こえる。
 耕祐の呼吸も足取りも、全く佐緒里に追いつけない。
 少しずつ、弾む佐緒里の髪が、背中が、耕祐から遠ざかる。
 サイクリングコースとして舗装された、大久間川の堤防の、やや荒れたアスファルトの感触。
 太陽が、上を向いている。
 冬の間、根だけを残し枯れていた川原の草が、本番の春に向け、少しずつ息を吹き返す。
 その青くさい匂いが、陽光を受けて緩みだした土の間から、立ち上る。
 走っている間中、真夏でも、真冬でも、ずっと、今この瞬間も、聞こえているヒバリの声。
 一歩踏み出すごとに、視界の後ろへと流れ去ってゆく。
 何気ないものが、何気なく消えていく瞬間。

 無理をして佐緒里のペースに合わせようとしたせいか、いつもより早く、町営アパートの駐車場に着いてしまった。
 先浜町営末広アパートの駐車場は毎朝の待ち合わせ場所であり、佐緒里の家は、この二号棟、三〇二号室にあった。
 一緒に走り始めた直後は、佐緒里の母親に軽い食事をごちそうになったこともあった。
 口を付けられないほど熱い牛乳と一緒に、マーガリンと砂糖を付けた食パンを食べさせてもらったことを思い出す。
 去年の夏休みに遊びに行って以来、耕祐が佐緒里の家へ入ったことはない。
 申し訳なさそうな、なにかを拒むような、よくわからない目をしている佐緒里に向かって、耕祐はどうにか笑って見せた。
「じゃあ、またね」
 笑わなければよかった。
 そう思わないよう、耕祐はなんとか、笑い続けることができた。
「うん、また。学校で」
 佐緒里は、表情を変えない。
 一緒に走るのは今日で最後だというのに、二人はいつも通りの挨拶を交わして、それぞれの家に向かった。
 控えめな朝日が、静かな商店街を照らしている。
 空はまだ、完全には明るくなっていない。
 とぼとぼと歩きながら、耕祐はニット帽を脱いだ。
 こもっていた熱気が、朝のすがすがしく冷たい空気に一瞬で持ち去られる。
 この爽快さが、静かさが、逆にくやしい。
 あと一時間半か二時間もたてば、登校する小中学生で騒がしくなる商店街の歩道を、耕祐は石を蹴りながら進んだ。
 石の転がる音が、閉じたシャッターの並ぶ歩道に響く。
 不思議な気がする。
 シャッターの閉じた店の奥で、カーテンの閉じた窓の奥で、大人も子供も、もう起きだして、朝食をとっていたり、顔を洗っていたり、あるいはまだ眠っていたりする。
 もちろん、カーテンやシャッターにさえぎられて、外からは見えないが。
 でも今この瞬間、絶対に、そうしたことをしているのだ。
 自分はその外側を、一人で歩いている。
 外側の人と、内側の人。
 今日までの佐緒里は、一緒に外側にいたのに、明日からは内側の人になる。
 不思議な気がする。
 不思議だと思うこと自体、今日の自分はおかしいのかもしれない。
 この日の朝、佐緒里と顔を合わせるまでは、一度も考えたことがなかったからだ。
 何度か蹴ったところで、石が音を立てて側溝に落ちた。
 耕祐は足を止め、タクシーが一台も停まっていないタクシー会社の事務所の前で、ニット帽をかぶり直した。
 何気なく目をやった商工会の掲示板に、ポスターが一枚貼られていた。

 先浜金管隊 隊員メンバー募集!
 夏祭り 秋祭りなど 各種行事で 
 楽器を 演奏 してみませんか
 年齢不問 未経験者大歓迎 楽器 制服 あります
 お問い合わせ お気軽にこちらまで 
 実浜町先浜末広商工会 渉外係
 江先稲荷神社 崇敬会
 電話――

 耕祐は、ポスターをじっと見つめた。
 秋祭りの光景だった。
 まぶしい照明に照らされた、夜の商店街。
 二車線しかない先浜町末広の商店街が、神輿渡御の行列と沿道の観客でぎっしり埋まっている。
 屋根に上っている見物客も、数えられただけで二十人はいる。
 神輿の後方では、金管隊が整然と楽器を構え、淡い色の浴衣を着た踊り方と交互に並んで行進している。
 隊員は白く長い鳥の羽を付けた青いベレー帽、黒いズボンに白い詰襟姿で、胸にピンク色の紙花と紅白のリボンを付けている。
 この町に住んでいれば、まず間違いなく、毎年目にする光景だ。
 耕祐の背後で、新聞配達を終えたバイクが、ろくにスピードを落とさないまま、信号が黄色に点滅する交差点を、右折して走り去った。
 町内のあちこちにある防災無線の屋外スピーカーが、やや割れた音質で『ペール・ギュント』の『朝』を流し始めた。
 黄信号の点滅をしていた信号が、赤く灯った。
 午前六時が、やってきた。
 耕祐はそのポスターを、何度も、何度も目で追った。

 年齢不問 未経験者大歓迎

 大歓迎

   *

 スネアドラムとトランペットの乾いた音が、遠くから聞こえる。
 佐緒里はペダルをこぐ足を止めた。
 先浜金管隊。
 エンゼル節。
 正式には『先浜節』というが、そう呼ぶ住民はいない。
 その由来を知るものがいないにもかかわらず。
 江先稲荷神社の境内で、今日も練習しているようだ。
 音の厚みから想像するに、今日は十五人程度の編成のようだ。佐緒里の所属する、先浜中学校吹奏楽部の、三分の一にも満たない。
 佐緒里の立っている、一戸建てに挟まれた二車線の商店街からは、距離がありすぎて、しかも建物が邪魔で、音がよく聞こえない。
 メロディーが聞き取れる前に、楽器の音は街の空気に溶けて、風に乗って消えてしまう。
 途切れ途切れに聞こえるメロディーだったが、佐緒里の頭の中では、曲が完全に復元されていた。
 この町に住んでいれば、まず間違いなく、どこかで聞いている音だ。
 幼稚園でも保育園でも、小学校でも、必ず盆踊りの練習がある。
 今思えば、あんな古くさい踊りを、無邪気に、本気で練習していたことは、可能な限り抹殺したい過去だ。
 ある種の洗脳だと、佐緒里は思う。
 冷静に聞けば聞くほど、奇妙に思えて仕方ない楽曲だ。
 思い出すだけで恥ずかしく、とても滑稽だ。
 江先稲荷神社は、この町で一番大きな神社だ。商店街からほど近い、標高二十メートルという、低い丘の中腹にある。
 自転車でも二、三分程度の距離だ。
「行って、みるかな」
 佐緒里はつぶやき、立ち漕ぎで自転車を加速させた。
 近づけば近づくほど、断片的だったメロディーがより明瞭になってゆく。
 タクシー会社の事務所とレストランのある交差点を、末広商店街から神社の参道に向けて曲がる。 
 途切れがちだったトランペットとスネアドラムが、はっきりわかるようになる。
 参道にある駄菓子店を越えたあたりで、トロンボーンとテナーサックスが聞こえるようになり、書店の前を越えれば、ホルンの奏でる刻みが聞き取れるようになる。
 土産物店とラーメン屋の前を通り過ぎればバスドラムが聞こえ、拝殿に続く緩い石段と、その下にある朱色の巨大な鳥居が見えるころには、ほぼ全ての楽器の音色が聞き分けられる。
 最後に聞こえてきたのは、主旋律の篠笛と法螺貝。
 そして、この町に引っ越してきて以来、エンゼル節と出会って以来、ずっと抱いてきた疑問を、佐緒里はため息混じりに繰り返す。
「――なんで、盆踊りの伴奏が吹奏楽なのよ」

 額に浮かんだ汗が、眉を通り越して目にかかってくる。
 厚い雲に覆われた午後の空気は、実に蒸し暑い。
 耕祐は、トランペットを構えた手の甲で汗を拭おうとした。
 すぐさま、コーチの持つ、細く丸めた新聞紙が無言で飛んできた。
 慌てて楽器を構えなおし、正面を見据えて演奏を続ける。
 昼間は会社に勤めている隊員も多いだけに、昼の部の練習は参加者が少ない。そのほとんどが、耕祐達町内の小中学生、もしくは現役を退いた世代だ。
 顎が上がれば、新聞紙が飛び、肘が、楽器が下がっても、背筋が丸まっても、新聞紙が飛ぶ。
 今練習をしているのは、指導者を含めて二十人だ。
 参加者が少なくとも、指導者陣が少なくなることも、指導が緩くなることもない。今日も、行進にぴたりとついてくる。
 指導者がついて練習するときは、曲調そのものより、行進の動きや演奏の姿勢に、指導の軸足が置かれている。
 曲や楽器の練習は、ほとんど隊員の自主的な練習にゆだねられていた。
 おかしいところがあれば、すぐ丸めた新聞紙が飛んでくる光景にも、替わりはない。
 もとは馬の競りの会場だった駐車場が、先浜金管隊の練習場だ。
 楕円を描いて行進する金管隊の中心で、バンドメジャーが指揮台代わりのビールケースに乗って手を振っている。
 白い手袋をはめた手を、年齢を全く感じさせない速度で、大きく、機械的に振り続ける。
 バンドメジャーの隣では、主旋律を受け持つ十人ほどの篠笛組と法螺貝組が、背筋を伸ばして吹いている。
 そのうちの四人は小学生、二人は高校生、残りの四人はご近所のお年寄りだ。
 この場にはいないが、先浜中学校の生徒にも、篠笛組がいたはずだ。
 篠笛組と法螺貝組の脇にも、コーチらしき老人が立っている。
 度のきついセルフレームの眼鏡をかけ、農機具メーカーの粗品のアポロキャップに作業服姿だ。
 よれよれの服装とは裏腹に、両手の中指をズボンのラインに這わせた直立の姿勢で、篠笛組と法螺貝組に鋭い視線を向けている。
 耕祐が先浜金管隊に入ってから気づいたことだったが、バンドメジャーもコーチ陣も、かなりの老人ばかりである。 
 演奏する隊員の年齢は実にばらばらで、今日の練習会に参加している小中学生は、実際に金管隊を構成するメンバーの比率としては少数派だ。
 コーチ陣も本番や全体練習になれば演奏に加わるが、普段の練習では、他の隊員の指導ばかりを行っている。
 スーザフォン担当が一人も練習に参加していないせいもあって、楽曲の音色としては、どこか物足りない。
 佐緒里は自転車を止めた。
 スタンドを降ろして手を放し、境内に続く石段に腰を下ろした。
 先浜金管隊は、見物人の有無など関係なしに、淡々と練習を続ける。
 楽器の数が足りず、物足りない音色なのに、一人一人のピッチとリズムが揃っているせいで、安心して聞いていられた。
 アマチュアの演奏にありがちな、不安定さや未熟さに対する甘えと、ある種の開き直りにも似た妥協が、薄いような気がする。
 それだけ、練習を重ねている証拠だ。
 大部分の隊員が小学生から始め、ほぼ同じ顔ぶれでほぼ同じ楽曲を続けていることも、曲に安定感と安心感をもたらしている。
 逆に言えば、整いすぎて面白みに欠ける。
 毎年、何度も聞いている曲を、先浜金管隊は、毎日、欠かさず練習を重ねている。

 曲が終わった。
 バンドマスターの笛の合図で、金管隊の行進が止まる。
 続けて鳴らされた笛で、構えていた楽器を一斉に降ろす。
 見慣れすぎたとはいっても、丁寧な演奏と整然とした動きは、いつ見ても気持ちがいい。
 思わず拍手をしそうになって、佐緒里は思わず視線を左右に巡らせた。
 誰にも、見られていない。
 できるだけさりげなく、佐緒里は手を引き戻した。
 駐車場の中心に立っていたバンドマスターが、指揮台代わりのビールケースを持って、駐車場の端に移動した。
 金管隊も、列を保ったまま駐車場の端に集まる。
 篠笛組と法螺貝組が、金管隊の前に整列する。
「全体――――」
 整列する隊員が、背筋を正す。
「構え――ッ!!」
 振り絞るような、必要以上に力の込められた声で号令をかけ、さっと手を挙げる。
 佐緒里には、今の号令がなんと言っているのか、いまだに聞き取れない。
 隊員が同時に楽器を構える。
 機械の動きを見ているようだ。
 再び、エンゼル節の演奏が始まった。
 先ほどの行進とは、異なる動きのようだ。
 バンドマスターが先頭になって、隊列が動き始める。
 右、右、左、左と半歩ずつ進みながら、エンゼル節を演奏し始めた。
 遠目には、ほとんどその場に立っているようにも見える。
 神輿渡御のときに、これくらい遅い行進をしていた。――ように、佐緒里は思い出す。

 小さな手拍子が聞こえて、佐緒里は視線を駐車場から、近くの自動販売機に向けた。
 ベビーカーから降りた小さな男の子が、自動販売機にもたれかかって、大喜びで手を叩いていた。
 金管隊の行進に近づこうとして、背後から抱きあげられている。
 買い物帰りらしい、親子連れのようだ。
 ママー、あれ盆踊りー? という声が聞こえる。
 他に見ている通行人は、犬の散歩のついでに見ているおじいさんが一人くらいだ。
 先浜金管隊の練習は、参加するメンバーを微妙に入れ替えつつ、ほぼ毎日行われている。
 すっかり、町の風景になっている。
 あまりにもありふれていて、誰も耳を傾けようとはしていない。
 佐緒里は、じっと先浜金管隊の練習を眺める。
 祭のためだけに、存在する楽団。
 町のイベントに参加することはあるが、コンクールに参加するという話は、聞いたことはない。定期的な演奏会というものも、これまでただの一度も催していないのだ。
 実力的にも、編成の上でも、いろいろもったいないなと、佐緒里は思う。
 木管楽器がテナーサックスだけで、佐緒里の所属する吹奏楽部とは、音色の釣り合いというものがまるで違う。
 しかも、金管がずらりと揃っていながら、主旋律が篠笛に法螺貝なのだ。
 耕祐の担当するトランペットも、副旋律ばかり吹いている。
 ――わたしなら、吹奏楽部ではフルート担当だから――
 そこまで思いかけて、佐緒里は我に返った。
 ピアノの教室に向かう途中だったのだ。
 佐緒里は、行進しながら演奏する先浜金管隊から、その頭上に視線を向けた。
 今にも雨が降り出しそうな、厚く重い曇り空だ。
 湿度が高い。
 動けば汗ばみ、じっとしていても汗がにじみ出る。
 佐緒里は立ち上がって、制服のスカートに着いた砂埃を払った。
 籠に積んでいた鞄をもう一度押し込んでから、自転車にまたがる。
 練習を続ける耕祐を、ちらりと見る。
 前に立つ隊員の後頭部を凝視したまま、耕祐は演奏を続けている。
 佐緒里に気付いた様子はない。
 気付いていたとしても、なにか反応を見せるとは思えない。
 よそ見をしたら、またコーチの新聞紙が飛ぶのだ。
 佐緒里は、ペダルを踏む足に力を込めた。

 もうすぐ、梅雨が明ける。
 梅雨が明ければ、夏休みがやってくる。

  *

 おい、パルプ町行こうぜ。
 花火、見ようぜ、花火。
 嫌な予感はしていた。

 その町には、大久間郡実浜町松ノ原という、れっきとした地名がある。それなのに、昔、パルプ工場ができたという理由で『パルプ町』と呼ばれ始め、いまだにこの習慣が続いている。
 紙パルプだけを生産していたのは、操業を開始してから数年間のことで、紙を作り始めるまでそれほど時間は空いていない。国内有数の最新設備を備えた、大規模製紙工場として有名なのに、それでもいまだにその町は『パルプ町』と呼ばれ続けている。
 『花火大会の日』に『パルプ町』と言えば、それはもう、製紙工場の裏手にある『大久間川信号場』に行くことを意味していた。
 信号場の管理小屋の屋上が、町の花火大会を見るには絶好の場所だった。
 町の南端、隣町との境、製紙工場の敷地から、丘を挟んだちょうど反対側、大久間川を渡る常磐線の鉄橋を越えてトンネルに入る直前に、その信号場はあった。
 昔は、その信号場で乗客が乗り降りすることができた。
 増大する貨物輸送に対応するため、県内の貨物港とこの製紙工場の間を複線でつなぐ計画が、戦前まで存在した名残だ。『大久間川信号場』が『大久間川駅』になる寸前まで、製紙工場と地元住民合同の請願運動も進んでいた。
 信号場で乗客の乗り降りができたのは、電化されるずっと以前の、あの戦争が終わった直後までの話で、しかも、その公式な記録は、現在では一切残っていない。
 主に利用していたのは、軍や工場の関係者だったから、あまり知られないままだった。関係者にとっては、その信号場が最寄りの駅よりもはるかに近い便利なところにあった、というわけだ。
 しかも、終戦直前の港や製紙工場への空爆、終戦直後の混乱で、製紙工場の生産と鉄道網が一時的に麻痺した。
 それだけが原因ではなかったが、戦後になって駅への格上げは、無期限で延期になった。
 もとは職員が常駐していた『大久間川信号場』だったが、三十年ほど前に自動化され、今では無人になっていた。
 そして、地元の住民、特に、子供達にとって、『大久間川信号場』は、やや偏った視点で見られることが多い。
 信号場が話題に上る時には、きまって出所のわからない噂話が混ざっていた。
 戦時中、連合軍の艦載機に攻撃されて、居合わせた列車が信号場もろとも爆破された。
 上京しようとしていた軍属の家族が、その攻撃で死んだ。
 その時に行方不明になった女の子の霊が、今でもその信号場やトンネルをさまよっている。

 期末試験一週間前の、最後の週末。
 今年も、花火大会がやって来た。
「……本当に、行くのか?」
 また念を押してきた耕祐に向かって、雅史はわざとらしく目を見開いた。
「くどいな。そう言ってんだろう」
「それとも、もう予定があるのか?」
 耕祐の机に片肘をつき、秀範はぐいと身を乗り出してきた。
「誰とだ、言ってみろよ。おいこら」
「また志賀と『でえと』か。にくいなこの女殺し」
「ううんそんなんじゃないよ!」
 意味ありげににやつく秀範に、耕祐は慌てて首を横に振った。
「それに、なんだよ、デートって。僕がいつ佐緒里と、一体」
「毎朝会ってるって、聞いたぜ」
「それはけしからん。実にいやらしいな」
「小学校の時、ちょっとの間、一緒にジョギングしてただけで、今は全然」
「どうだかなー」
 にやにやしている雅史と秀範の前で、耕祐は声のトーンを幾分落とした。
「……と、思う」
「なんだよそれ」
「そうかわかった。耕祐クンは」
 雅史はなにかに気付き、そしてつまらなそうな顔をした。
「祭のブラスバンドの練習、そうだろ?」
「ブラスバンドじゃないよ、先浜金管隊」
「どう違うんだよ」
「まずね」
 得意げに、耕祐は胸を張った。
「そもそもブラスバンドというのは、木管や弦楽器を含まなくてさ、楽器の編成がコルネット、それもエス管とべー管、それに――」
「何度目だそんなの、聞き飽きた」
 雅史は耕祐の口を、ぐいと手のひらでふさいだ。
「まだ続けてたのか――保育園の頃からやってなかったか?」
「まさか」
 耕祐は笑いながら、雅史の手を押しのけ、手のひらを振った。
「僕が入ったのは小四から。まだ、たったの五年だって」
「たったの五年、って」
「よく続けるよな、おまえも」
 年寄りに向けるような目の秀範を横に、雅史が続ける。
「で、練習は」
「あるけど、五時で終わるから。祭の警備に出る人もいるから夜の部の練習はないし、行こうと思えば行ける、けど」
「ブラスバンドが参加するのか、その花火大会に」
「いや、まさか――だからブラスバンドじゃないと何度言えば」
 耕祐は笑って、打ち消すように手を振った。
「じゃあー決まりだ」
「ええっ!?」
「六時に『クレセント』前な」
「本気か」
 先浜中学校の校門から、末広商店街へ出て、北へ百メートルほど進んだ先の並びにある、狭いアイスクリーム店である。
 アイスクリーム店と銘打っている一方で、駄菓子が並ぶ棚もあれば、お好み焼きが焼ける鉄板付きのテーブルもある。
 代官屋敷の長屋塀を改造して店をやっていて、始まりは天保期の甘酒屋らしい。
 現在では、麹から作った甘酒を売るのは初詣の時期に限られるようになったが、メインを甘酒から手作りのアイスクリームや和洋菓子に移しつつ、今なおこの町に甘味を届け続けている。
 実に二世紀にわたって、この田舎町の住人の、よいたまり場にもなっていた。
「他にも誰か、いかねーかな――」
 思考を停止させてしまった耕祐をよそに、雅史はだれかれ構わず、声をかけ始めている。
「耕祐、おまえも声かけてけって」
「う、うん」
「見つけたら先生にも聞いてみろ」
「先生もか!?」
「まずくないか、あれ立ち入り禁止だし」
「構わないだろ。クラス全員が努力目標だ。いいな?」
 担任の佐々岡先生が好んで使う単語を絡めて、雅史は楽しそうに笑う。

 耕祐をはじめとする先浜金管隊に所属している町の中学生は、特例が認められていた。
 学校の部活動に、所属せずともよい。
 ほぼ毎日活動していること、教育委員会も絡んでいる伝統行事を通して地域振興に貢献していること、活動が町内を中心としていて、信頼できる組織の指導陣がいることなどが、特例として認められている根拠だった。
 試験前や学校行事のある時には、活動を休止するのも、部活動と同じ扱いである。
 言うまでもなく、部活動との掛け持ちで活動しても構わない。先浜金管隊に専念している耕祐は、むしろ少数派だ。
 授業と掃除が終われば、耕祐はすぐに、練習会場の江先稲荷神社大駐車場へ向かう。
 三階の教室を出て、廊下を歩き、昇降口に向かって薄暗い階段を下りる。
 ランニングを始めているサッカー部の太い掛け声が、校庭から聞こえてくる。
 声かけてけって。
 そんなこと言われても、困る。
 ランニングの掛け声とは、わけが違う。
 部活動をしているクラスメイトのところに、そんな用事で顔を出すわけにもいかない。
 一人一人、片っ端から連絡するほどのものとも、思えない。
 たまたま顔を合わせたら、言えばいいや。
 そういう事にして、耕祐は階段を下り、一階に降りた。
「あ」
 昇降口の前で、廊下を歩く佐緒里と、耕祐はばったり会った。
「よ、よう」
「うん」
 理由が特に見当たらないのに、佐緒里の前に立つと、わけもなく緊張感が漂う。
 佐緒里は佐緒里で、通学鞄と、フルートの収められたケースを、力を込めてぎゅっと抱えている。
「今から部活?」
「そうだけど?」
 なにを分かりきったことを、という顔で、佐緒里が答えた。
「今日の六時、『クレセント』集合ね。花火大会」
「――!?」
 なんの前置きもなしにさらりと言い放った耕祐に、佐緒里が突然、片方の足を引いて低く身構えた。
「は、は、花火!?」
「うん。よければ、一緒に」
「え、な、な、なにそれ!」
「あ、えっと、その、えっとね」
 急に顔を赤らめてうろたえだした佐緒里を見て、耕祐までがしどろもどろになる。
「ま、まさ、雅史と秀範が、『大久間川信号場』に花火を見にいかないかって。クラスのみんなで」
「――なんだ」
 佐緒里は、動きを止めた。
「先生にも、言ってみようかと思うんだ」
「だから、――なに」
 その視線が急速に冷却されていく。
「だからさ、よかったら佐緒里もさ」
「無理」
 即答された。
「へ」
「わたし、部活終わったらすぐ塾だから」
「花火大会なのに?」
 佐緒里の眉間にしわが寄せられた。
「花火大会だからって、塾が休みになるわけ?」
「ぼ、僕に聞かれたって」
「だいたいにして、試験前じゃない」
 佐緒里は両手で持っていた鞄とフルートを、反動をつけて抱え直した。
「塾、終わってからだったら、ウチの家族で見に行くかもしれないけど」
 ひどくつまらなそうに、佐緒里は肩をすくめた。
「六時なら、塾」
「そ、そっか」
 笑ってごまかして、耕祐は下足入れに片手を置いた。
「あ、ちょっと」
「なに?」
 上履きに指をかけたところで、耕祐は動きを止めた。
「先生には、まだ言ってないのよね?」
「うん、これからだけど……なんで」
「ううん、別に。またね」 
 素っ気ない。
 一階の廊下を、佐緒里が音楽室へと歩いていく。
 断られるだろうなとは思っていたが、ここまで突き放されたのは想定外だった。
 なにか、ひどい失言でもしてしまったのかと、耕祐は考え込む。
「――むう」
 もう一度、教室に行ってみることにする。
 週が明ければ、定期テストの一週間前になる。
 部活動は休みになり、先浜金管隊の練習への参加も休みになる。
 仲間は、多い方がいい。
 試験前の貴重な時間に大勢で行く方が楽しいという、言わずもがなのことだけではない。
 『大久間川信号場』は、本来は関係者以外立ち入り禁止になっている。それは皆が承知している。
 そこへ、あえて花火見物に行くわけだ。だから、下手人は多い方が、一人あたまの罪深さも緩和されるというものだ。
 脱ぎ掛けた上履きに踵を入れて、耕祐は階段を駆け上がる。
 いればもうけもの、どうせ誰もいないだろうと、思い込んでいた。
 無遠慮に耕祐が勢い良く開けた扉の音に驚き、窓際の席に座っていた藤曽根佳代が、目を大きく見開いていた。
「あ」
「――!?」
「い、いや、ごめんごめん」
 佳代は、パステル調のブックカバーを付けた文庫本を、開いたまま手にしている。
「や、その、ちょっと忘れ物を」
 言う必要のない、出まかせのいいわけを口にして、耕祐は頭をかいた。
 どちらかといえば、耕祐の中では、影の薄い存在の同級生だった。
 観察しているわけではないから、詳しいことを知るはずもない。
 仲のいい友達、というものがいるのかも、わからない。
 耕祐自身、個人的に話をすることはない。
 しかし、忘れ物と言った以上、このまま教室を出るわけにもいかなくなった。
 耕祐は成り行き上、扉から自分の机へと向かった。
 さらに気まずいことに、耕祐の机は、佳代の机の斜め前に位置している。
 耕祐が近づいて、佳代は持っていた文庫本をぱたんと閉じた。
 空っぽの机をわざわざ片手でまさぐる。
 実に、気まずい。
「そうだ、全部、鞄の中だった。寝ぼけたかなーあははー」
 自分自身が挙動不審に見られているのが、痛いほど伝わってくる。
「……」
 ぎこちなく扉に向かう耕祐を、佳代がじっと視線で追う。
 言うべきか、否か。
 廊下に向かって歩きながら、耕祐の前頭葉が猛烈な勢いで逡巡を始める。
 ただでさえ、普段から会話のない女子だ。
 気まずいこと、はなはだしい。
 でも。
「あ、そうだっ」
 さりげなさを装うあまり、語尾に変な力がこもってしまう。
「今日、なんか、用事ある?」
 声をかける。
「!」
 佳代は全身をびくっとこわばらせた。
 ひどく驚いている。
 佐緒里と同じ反応だ。
 どういう事かと、耕祐は内心首を傾げる。
「今日、花火大会でしょ、町の」
 表情をこわばらせたまま、首のわずかな角度の変化だけで、佳代がうなずいた。
「クラスのみんなで、『大久間川信号場』に、花火を見に行こうって事になってさ」
 動きを止め、佳代はじっと耕祐を見ている。
「よかったら、藤曽根さんも、ど、どうかなって――佐々岡先生も来るかもしれないし」
 担任の名前を出せば警戒がほぐれるかという、耕祐の目論見は外れた。
 閉じた文庫本を握ったまま、佳代は微動だにしない。
 ――脈なしかな、まあいいや。
 言うだけは、言ったのだ。雅史と秀範に対する義理は、これでノルマ達成だ。
 耕祐は自分の席から手を放した。
「よかったら、『大久間川信号場』に行こう。向こうには、直に行ってもいいし、道がわからなかったら、六時に『クレセント』前ね」
「行く」
 声が小さすぎて、よく聞き取れなかった。
「えっ?」
 耕祐は振り返った。
 佳代は自分の席に座ったまま、じっと下を向いている。
 しばらく待ってみたが、佳代は身動きをとろうとしない。
「じゃ、じゃあね」
 あまりもたもたしていると、練習に遅刻する。
 下を向いたままの佳代に手を挙げ、耕祐は急いで教室を後にする。

「お疲れ様でしたーっ」
 音楽室の天井の、長い蛍光灯の明かりが次々と消えていく。
 暮れなずむ外の明るさで、板張りの音楽室がほのかに照らされる。
 部員達が、音楽室を後にしていく。
 最後に出た佐緒里は鞄を足元に置き、扉に鍵をかけた。
 ドアノブを何度か回して鍵がかかっていることを確かめ、両手で鞄を抱える。
 すっかり薄暗くなり、人の気配の消えた校庭を横目に見ながら渡り廊下へ出て、校舎の一階にある職員室を目指す。
 廊下の壁沿いに荷物を降ろし、右手で軽く、扉をノックする。
「失礼します」
 ノックをせずに入ろうとすると、やり直しをさせられる。
 扉を開けるとすぐ、濃い目に入れられたコーヒーの匂いが鼻につく。
 もう少しで六時になろうとしていた。
 ほぼ全員の教師が、机に向かっている。
 窓際の席で書類をにらみながら教師と話し込んでいた教頭が、ちらりと佐緒里を見る。
 職員室入ってすぐの壁に、古ぼけたコルクボードが取り付けられている。
 コルクボードには教室の名前がシールで張られ、黒くさびたヒートンがずらりと並ぶ。
 そのすぐ下にノートがぶら下げられていて、誰がいつ、どこの鍵を持ち出したかが、すぐわかるようになっている。
「すみません、鍵を返しに」
 手近にいる教師を呼び止め、確認をしてもらう。
「ああ、鍵ね」
 職員室には何十人も教師がいるのに、佐緒里の声に反応したのは一人か二人だった。
 さらに、席から立ち上がって近づいてきたのは、クラス担任の佐々岡志津先生だった。
 佐々岡志津先生は、美術を担当している。
 今年の四月から、一年契約の非常勤講師として先浜中学校に赴任していた。
 受験科目もしり込みするような授業の厳しさと授業の質の高さ、打って変わる普段の人当たりの良さが相まって、生徒の受けはよかった。
 他の教師達と比較して、はるかに年齢が近いことも、輪をかけて距離感を狭めていた。
「音楽室ね」
「そうです」
「コンクール、近いんだったかしら」
「来月すぐに、県予選です」
 先週行われた地区大会は、既に通過していた。
「頑張ってるわね」
「はい」
 正直なところ、佐緒里は佐々岡先生のことが、あまり好きになれずにいた。
 悪い人ではない。それはわかる。
 何事にも、丁寧に取り組むまじめな人だということは、理屈抜きに分かっていた。
 感づかれない程度に、佐緒里は佐々岡先生を見る。
 美人だ。
 誇張でもなんでもなしに、二年六組どころか、学校中の男子と男性教師にもてている。
 わずかに漂う、高級そうな香水の匂い。
 才知と愛情ある家族に生まれ、まっすぐ育ってきたような目。
 くせのない、真っ黒い髪。
 これらのどれもが気に食わない。
 こんな大人に、なれる気がしない。
 才能を持っている人間、自然体でも好感度の高い人間に対する、単なる嫉妬なのかもしれなかったが。
 佐々岡先生はブラウスの胸ポケットに差していたクロスのボールペンを握り、ノートの確認欄に丁寧な字でフルネームを書いた。
「じゃ、これ、戻しといて」
 前かがみになった佐々岡先生の喉元で、細いゴールドのネックレスが揺れる。
「では、失礼します」
「はい、ご苦労さま」
 ぺこりと頭を下げて、佐緒里が廊下に体を向ける。
「……」
 ほんの数秒間、佐緒里は動きを止めた。
 閉じられたドアを前に、わずかに視線を横に向けた。
 耕祐の言葉が、頭の中によみがえる。
 
 ――今日の六時、『クレセント』集合ね。花火大会。
 ――先生にも、言ってみようかと思うんだ。

 その先の光景を、佐緒里は思い描く。
 『大久間川信号場』のある、植林されたスギに覆われた、丘の中腹。
 その管理小屋の屋根の上で、二年六組の生徒が集まって花火を見物している。
 そこには耕祐がいて、自分がいない。
 『クラスの生徒』と言っていた以上、女子もいる可能性がゼロではない。
 生徒だけの集まった自主的なイベントを通じて、距離感が変わることもあり得る。
 許されない。
 あってはならないことだ。

 佐緒里はくるりと振り返った。
「あの、先生」
 机の前で書類を片付け始めていた佐々岡先生が、顔を起こした。
「どうしたの?」
「先生は、聞きました?」
「なにが?」
 佐緒里は確信する。
 耕祐達は、佐々岡先生には言わなかった。
 言わないだろう。言うはずがない。
 それも、当然のことだ。
 『大久間川信号場』は、関係者以外は立ち入り禁止のはずだからだ。
 佐々岡先生の性格を考えれば、この話を知ってどう行動するか、誰にでも予想がつく。
「今日、花火大会ですよね、町の」
「ああ、そうだったわね」
「こうすけ……じゃない、坂巻君や千葉君、尾松君達が言ってたことなんですけど」
「……なんて?」
 机の一番下の引き出しに入れていたハンドバックを取り出しながら、佐々岡先生が聞き返した。
「クラスのみんなで、花火大会に行こうって」
「へえ、楽しそうじゃないの。いいわねそういうのー」
「先生も、よければ一緒に見に行きませんか」
「……え?」
 生徒の内輪の話が急に自分にも関わりだして、佐々岡先生が動きを止めた。
「わたしもなの?」
 その口調が、教師というより学生に近いものに変わった。
「ほんとに、いいの!?」
「先生と会ったら、声かけてくれって、わたし言われたもので」
 嘘をつく。
 なぜ、誰にも言われてもいないことを言っているのか。
 自分自身でも、わからない。
「それで先生、『クレセント』って知っていますか」
「ええ、この間、ラジオで紹介されていたわね……江戸時代からやっているアイスクリームのお店、だったかしら」
 佐々岡先生の認識はいろいろと間違っているが、今はそれを指摘する場面ではない。
「それです。そこに六時集合だそうです」
「六時――もうすぐじゃない」
 佐々岡先生が、手首の細い腕時計に視線を走らせる。
「そこから『大久間川信号場』に行くらしいです」
 佐緒里の読みが的中した。
 腕時計から顔を上げた佐々岡先生は、ここで動きを止めた。
 まじまじと佐緒里を見てから、ハンドバッグを机に置いた。
 机の上のドッジファイルの一つに手をかけ、重そうに両手で持った。
 ばさばさと何枚かめくって、その次の一枚にざっと人差し指と目を走らせる。
「――何年か前に問題になった場所ってあるじゃない」
「そうなんですか」
 佐緒里はとぼけた。
 この町で育っていない佐々岡先生にとって『大久間川信号場』は、単なる『生徒が行くかもしれない、立ち入り禁止の危険な場所』の一つにすぎないのだろう。
「……花火……うーん……」
「あの、先生」
 考え込み始めた佐々岡先生を、佐緒里は指でつついた。
「もう、いいですか」
 ドッジファイルを持ったまま固まっていた佐々岡先生が我に返った。
「わたしこれから塾なので」
「……って、志賀さんは行かないの?」
 佐緒里は表情を変えることなく、今口にしたばかりの台詞を繰り返す。
「わたしこれから塾なので」
「お祭りなのに? ――ご苦労さま」
「失礼しました」
 扉の前でお辞儀をして、佐緒里は廊下へと出た。

 タイヤキの皮の焦げる匂いが、店の中から漂ってくる。
 天保六年創業、オリジナルアイスクリームショップ『クレセント』の前に、耕祐、雅史、秀範の三人が集まっていた。
 古くからある街道沿いの、しかも長屋塀を改装した飲食店には、駐車場などない。
 三人は狭い歩道に身を寄せ合って、行きかう自動車や歩行者を眺めていた。
 店の中には、買い物のついでに立ち寄った子供連れの主婦や、制服姿の近所の高校生の姿が見える。
 浴衣姿で、商店街を花火大会の会場へと向かう人の姿も多い。
「……誰っれも、誰も来ねえ」
 雅史は腕時計に視線を落とし、通りを見回してうめいた。
 十八時十七分を過ぎたところだ。
 今のところ、『クレセント』の前にいる二年六組の生徒は、耕祐達三人しか見当たらない。
 雅史が『クレセント』の中を覗き込む。
 通りに面したガラスケースの中で、あんこのたっぷり付いた団子とイチゴの乗ったショートケーキが、肩を並べている。
 二年六組の生徒の姿は、店の中にはない。
「くそう、さんざん声かけたのに」
「そりゃ、そうだ」
「あん?」
 平然としている耕祐に向けて、秀範がいぶかしげな目を向けた。
「だって、近くの会場の方が楽じゃないか」
 『大久間川信号場』までは、実浜町先浜末広の商店街から、直線距離で四キロメートルほど離れている。
「屋台とかあるわけでもないし、だいたいなんだってまた肝試し」
「耕祐」
 雅史が耕祐の言葉をさえぎった。
「ん、なに?」
「何人に声かけた」
「僕?」
「おう」
「二人かな」
「誰と誰だ」
「佐緒里と、藤曽根さん?」
「――尾松耕祐クン」
 雅史は自転車から手を放し、耕祐のこめかみに両手の親指をぐいと押し当てた。
「痛ててててて」
 そのまま手を耕祐の耳に向かって動かし、眉間を広げる方向にぐぐと力を込める。
「おまえはいつもなんで、そう他人事なんだ!」
「やーめーろー顔が広がるー」
「俺なんかあれだ、見かけたクラスの全員に声かけてんだぞ、それなのにおまえ!」
「そ、それはご苦労なことで」
「だから!」
「よせ、人に見られる」
 秀範が通行人に目を向けながら、じゃれあう二人をほどいた。
「それになんだおまえ、その恰好」
 Tシャツにショートパンツの雅史、近所のスーパーで売っているような安っぽい甚平を着た秀範とは対照的に、耕祐は半袖のワイシャツに黒い学生ズボン――学校の夏の制服姿だ。
「これから学校か?」
「十二時間くらいずれてるなおまえ」
「違うって。学校のある日に私服や運動着で練習に行くと怒られるから、これ着てるだけだよ」
「はいはい」
「ほんっと、おまえ、祭りが好きだな」
 耕祐に対する、雅史と秀範の反応は淡泊だ。
 納得いかない表情で、耕祐が首をわずかに傾けた。
「なんだよ」
「嫌だったらやってないよ」
「もういい、いくぞ!」
 雅史が荒っぽく、自分の自転車にまたがる。
「あ、いけね」
 舌打ちが聞こえ、耕祐と雅史が振り返った。
「なんだよ」
 秀範が、わさわさと全身をまさぐってる。
「かゆいところでもあるのか」
「違。財布――置いてきちまった。甚平にポケットないんだった」
「しょうがねえなあ」
「二人とも、先、行っててくれ」
「おい秀範おまえ、信号場行ったことないって、言ってただろ」
 雅史が自転車から降りた。
「待っていてやる、さっさと取って来い」
「お、おう」
 秀範は申し訳なさそうに頭をかいた。
「じゃあ、耕祐、おまえは先に行ってろ」
 うなずいた耕祐が、自転車のスタンドを起こした。
「あいよ」
「誰か向かってるかもしれないし」
「だね。んじゃ、向こうで」
「おうー」
 耕祐は、ゆっくりと自転車を走らせ始めた。
 
「悪い、待たせた」
 小ぶりのショルダーバッグをたすきに掛けた秀範が、雅史のもとへ走ってきた。
「早いな――おし行くか」
 急がずとも、耕祐に追いつくのは雑作もないはずだった。
「坂巻君、千葉君」
 明らかに中学生のものとは違う、大人の声がして、二人は動きを止めた。
「あっ」
「せんせい」
 雅史と秀範は、声をかけてきた佐々岡先生に気付いた。
 二年六組の過半数の生徒が、その佐々岡先生を取り巻いている。
「遅くなったけど、みんなもう大体集まってるからね。早く行きましょう」
「へ?」
「聞いたわよ」
「は?」
 話についていけず、雅史と秀範は顔を見合わせた。
「坂巻君と千葉君、それと尾松君が、言い出したんですってね」
 浴衣か柄物のTシャツ姿がほとんどの生徒達の中にあって、佐々岡先生は学校から直接来たらしく、白いブラウスと濃紺のタイトスカート、ヒールの低いパンプス姿だ。
 授業で生徒の前に姿を現すときは、いつも絵の具にまみれた白衣を着ている。
 佐々岡先生これすなわち油絵具臭い白衣、という印象の強い生徒達の目には、今の服装がとても新鮮に見える。
「は、はい?」
「言い出したとは、なんでしょう」
「クラスのみんなで、花火大会に行こうって」
「……んなこと、おまえ言ったのか」
「え、えーと、そのつもりだったが、なんか……」
「本当に、ありがとう」
「は、はあ」
 雅史と秀範は、とりあえずうなずいた。
「わたしなんかまで、呼んでくれて」
 佐々岡先生に正面から深々と頭を下げられ、同級生の注目を集め、雅史と秀範は顔を真っ赤にした。
「せ、せんせい、いやだなあかしこまっちゃって」
「と、当然じゃないっすかー」
「でも、『大久間川信号場』はダメ。関係者以外立ち入り禁止なんでしょ?」
「う」
「町内の高校生が花火をしたとかごみを散らかしたとかで、教頭先生からも重点的に指導せよとのお達しがあったし」
「え」
「あ、あー」
 内通者は誰かと、雅史と秀範が素早くクラスメイトに視線を飛ばす。
 一般の客と同じ、河川敷公園で見る花火など、あまりにもありふれていて、つまらないではないか。
「その代わりと言ってはなんだけど」
「?」
「今日は、特別にごちそうしたげる」
 ベージュのハンドバッグを振りながら、佐々岡先生はにっこりと笑う。
「えっ!」
 二年六組の構成員達は、その一言に目の輝きを増した。
「屋台でも、『きよ』のお好み焼きでも『後藤食堂』の焼肉でも。みんなに合わせる」
「ふ、ふおーー!!」
 佐々岡先生を取り囲む下々の者が、腹の底から叫んだ。
「先生、素敵!」
「佐々岡先生、最高!」
「さすが志津姫殿!」
「お供しますぞ、地の果てまで!」
「じゃあ、みんなで歩いていこ。自転車のコは早くおいてきな」
「ハーイ!」
 きょうび小学生でもためらいそうな元気のよい返事が、天保六年創業、オリジナルアイスクリームショップ『クレセント』の前で湧き上る。
 公式な花火大会の会場になっている町営河川敷公園までは、ゆっくり歩いて十五分ほどの距離だ。
 熱を出して寝込んでいる一人、部活動の遠征で町を離れている四人、塾に行っている佐緒里を含めた四人。後から合流すると言ってこの場にはいない六人。
 それ以外の全員が、担任の佐々岡志津先生と一緒に、実浜町の花火大会に繰り出した。

 *

 末広商店街を南へ抜け、旧国道をさらに走り、町境の川沿いの堤防を上流へ向かって走る。
 大久間川に沿ってひたすら走り、住宅地を抜け、水田沿いの道をさらに上流へ向かう。
 両岸に山が迫るようになり、やがて道は上り坂が続くようになる。
 先浜駅から南へ向かう単線の線路は、町を出てすぐ、水田と畑の中を走るコンクリート製の高架になり、そのまま大久間川にかけられた鋼鉄製の鉄橋を渡る。
 鉄道の鉄橋が見えるころになって、ようやく辺りが暗くなり始める。
 そして、この辺りまで来ると、明かりが本当に少なくなる。
 明かりと言えば、数百メートルおきに並んでいる小さな街灯と、まばらに並んでいる農家ぐらいだ。
 製紙工場の明かりは、今耕祐が自転車をこいでいる県道からは、山でさえぎられている。
 ペダルをこいでいた足から、力が抜ける。
 わずかに吹いている風が、耕祐の汗ばんだ背中を撫でる。
 なにも出るわけではない、そうわかっているつもりだった。
 西の隣町へ向かう道を外れ、大久間川信号場へ向かう取り付け道路に入る。
 黄色と黒のポールと赤いカラーコーンで、道はふさがれている。
 耕祐は自転車から降り、鍵をかけた。

 大久間川信号所
 この先行き止まり。通り抜けできません。
 関係者以外立ち入り禁止。
 許可なく立ち入った者は、法令により処罰されます。

 雨風に曝され続けた、丸とバツの記号が、カラーコーンにガムテープで貼られている。
 耕作を放棄した水田に、葦が密生している。
 風を受けて、かさかさと音を立てて揺れる。
 背筋を、生ぬるいものが走る。
 思い出す。
 肝試しの有名スポットだ。
 本来ならば、ここから信号場の管理小屋まで、一人ずつ登っていくのだ。
 当然のことながら、肝試しをするときは明かりを持ってはならない決まりになっていた。
 それ以前に、練習を終えてすぐ家を飛び出してきた耕祐に、そのような備えはなにもない。
「……!」
 何回か来たことがあったが、そう何度も来るところではないから、この雰囲気に慣れることはできずにいる。
 全員がこの坂道を上って、管理小屋まで行ってしまえば、肝試しはいつもそこで終わっていた。
 よく考えれば、こんなもの、肝試しでもなんでもない。
 『出る』かもしれないという根拠は、ただの伝聞だけだ。
 現に、ただの一度も『出た』ことなんてないのだから。
 ここで怖気づくようでは、花火を見ることはかなわない。
 気を引き締めて、取り付け道路に足を踏み入れる。
 その直後だった。
 自転車のタイヤが回り、小石を踏む音が聞こえた。
 血圧が急上昇する。
 耕祐は素早く振り返った。
 自転車を押す、線の細い人影が、じっと耕祐を見ている。
 その顔までは、暗くてよくわからない。
 鉄道の職員か、それとも警察か――
「尾松、くん……?」
 声ですぐに分かった。
「藤曽根さん!?」
 耕祐は大きく息を吐いた。
 肩にのしかかっていた重苦しいものが、すっと消えてなくなった。
 耕祐は小走りで佳代に駆け寄った。
「来たんだ?」
「こんばんはです」
 普通に話す藤曽根佳代を、耕祐は初めて見たかもしれない。
 佳代は乗っていた自転車を几帳面に耕祐の自転車と並べ、籠に入れていたリュックを背負った。
 長袖のTシャツに、膝丈のハーフパンツ姿だ。
 私服姿も、普段の佳代の印象とあまり変わりがない。
 あまり目立たない、影の薄そうな感じがする。
「……あれ」
 耕祐は、佳代の背後に目を向けた。
「他に、誰もいない?」
 佳代が、小さくうなずく。
「ここまで、クラスの誰かと会った?」
 佳代が、小さく首を振る。
「雅史か、秀範も、見なかった?」
 佳代が再び、小さくうなずく。
 一緒に、雅史か秀範が来ているかもしれないという予想が吹き飛んだ。
 予想外の事態だ。
 二人きりで、こんな薄暗いところで。
 なにから始めるんだっけ。
「――じゃ、じゃあ、行こうか」
 信号場になら、誰かがいるかもしれない。

 信号場へ向かう道は細く、急な坂道だ。
 道の両脇からは、伸び放題の藪がせり出している。
 ここからは完全な暗闇で、道幅の分だけ頭上に広がる空の方が明るい。
 どこかで、アマガエルが鳴いている。
 かろうじて足元がわかるだけで、目をつぶって歩くのと、大して変わらない。
「だ、大丈夫?」
 すぐ後ろを歩く佳代に、耕祐は振り返った。
 うん、という細い返事が、かすかに聞こえた。
 佳代も、明かりになるものを持ってこなかったらしい。
 耕祐自身、なにも用意していなかったのに、そのことを口にすることはできなかった。
 藪が刈られていないせいだ。
 予想していた以上に、暗い。
 何年前か覚えてもいない不確かな記憶を振り絞って、この坂道がどれくらいの距離だったか、思い出そうとする。
 急にシャツの裾が引き戻されて、耕祐は声を上げそうになった。
 佳代が、掴んでいた。
 その力が、意外に強い。
 立ち止まりかけて、耕祐は気が付かないふりをすることにした。
 シャツの裾を握る佳代の腕が伸びきらない程度の歩幅を保って、耕祐は坂道を先になって登る。
 佳代のかすかな息遣いが、耕祐の背中のすぐ後ろから聞こえる。

 距離にすれば、実際にはわずか二百メートルもなかった。
 耕祐は足を止めた。
 錆び付いたチェーンが、道を塞いでいた。
 チェーンの先に、一階建てのコンクリート造りの小さな建物が見える。『大久間川信号場』だ。
 プレハブの倉庫二つ分あるかないかという程度の、本当に小さな建物だ。
 近所の子供が目印にするには、まさにうってつけの建物なような気がする。
 道の幅が格段に広くなり、何台も車が停められそうなほどの広場がある。
 素早く、佳代が手を放した。
 『関係者以外 立ち入り禁止』という、色あせたプレートが、ここでも下げられている。
 この管理小屋の背後から石段を伝って丘を越えると、その真下に線路が走っている。
 だが今では、藪で完全にふさがれているのと、背の高い限付きのフェンスで囲われているせいで、ここから線路に降りることはできなくなっていた。
 ひとりでに、体の動きがゆっくりになる。
 アマガエルの声以外、音を出すものは、耕祐自身の足音だけだった。
 だが、職員や警官が見回りに来ていないという保証もない。
「着いたね――」
 耕祐は振り返った直後、強烈なキセノン灯に真正面から照らされ、思わず顔をそむけた。
 大ぶりの懐中電灯の光が、容赦なく耕祐の顔にぶつかる。
「まぶしい」
「あっ、ご、ごめん」
「消さなくてもいいから」
「あ、う、うんっ、ごめん」
 佳代がガチャガチャとスイッチをいじり、懐中電灯に明かりが戻る。
「懐中電灯、持ってきてたんだ」
「うん」
「下で点ければよかったのに」
「?」
 佳代の目が、どうして、と疑問を浮かべている。
「肝試しに来たんじゃなくて、花火を見に来たんだから、あるんだったら最初から点けてても――」
「!」
 佳代は血相を変えた。
 反射的に二歩分ほど耕祐から離れ、さっと顔をそむけた。
 耕祐は、笑い出しそうになるのを必死にこらえた。
 確かに、ここ『大久間川信号場』は肝試しのスポットとして有名だ。
 だが、だからといって、ここに来たからといって、明かりを消して坂道を登らなければならないという決まりなんか、どこにもない。
 佳代は、勘違いをしていたようだ。
「どこで、花火を見るの?」
 不自然なほど力を込めて、佳代が聞く。
「えっとね」
 口元の緩みをぐっと飲み下して、耕祐は管理小屋に視線を向けた。
 管理小屋の下にいたところで、取り囲む杉林に視界を遮られる。これでは花火大会は見えない。
「うわ」
「――?」
「鍵が増えてる」
 管理小屋の屋上に通じる外付けの階段を見て、耕祐は頭をかいた。
 前に来た時には、柵の隙間から手を差し込み、内側からかんぬきを上げれば、簡単に階段に入れた。
 それが今では、階段を塞いでいる扉には、南京錠が付け加えられていた。
 ぐるりと、管理小屋を回ってみる。
 伸び放題の草を踏みながら、窓の一つ一つに、手をかけてみるが、どの扉も窓も、間違いなく施錠されている。
「……入れない?」
 懐中電灯を持って後をついてくる佳代が、耕祐に聞いた。
「管理小屋は、無理か――」
 雨樋を伝おうにも、雨樋は細い樹脂製で、体重を支えられるような造りではない。
 昨年の夏休みに、この『大久間川信号場』に忍び込み、こともあろうに管理小屋の屋上でごみを放置し、花火をした者がいたせいだ。
 教育委員会や警察の捜査の結果、犯人は近所の高校生と判明した。人知れず利用していた耕祐達にまでとばっちりを受け、セキュリティが格段に厳しくなっていた。
 窓を無理に揺すって、防犯システムが作動しては元も子もない。
「参ったな――」
 轟音を立てて、普通電車が走り去る。
 大久間川信号場のある丘のすぐ下側、耕祐が昇ってきた道の反対側を、線路は走っている。
「花火、そろそろ始まるんじゃ……」
「尾松くん」
 佳代が、なにかを見つけたのか、懐中電灯の光を管理小屋の奥に向けた。
「――あれは」
 鉄骨の塔が立っている。
 監視塔のようだ。信号場の管理小屋より、倍以上、背が高い。
 ほとんど藪に近い、背の高い草に隠れていて、耕祐達の視点ではよく見えなかった。
 先端には大きなスピーカーと、無線のアンテナのようなものがついている。そのすぐ下には、人の立てそうな金網状の足場が、手摺とともに取り付けられている。
「登れ、そう……だね」
 草をかき分けて、耕祐と佳代は監視塔の下へ来た。
 火の見やぐらを、いくらか寸詰まりに低くしたような形状をしていて、梯子には、鍵も有刺鉄線もない。
 銀色のさび止めが塗られている。放置されているわけではなさそうだ。
 懐中電灯に照らされた監視塔から、耕祐は視線を佳代に移した。
「登ってみる?」
 佳代は、考えることもなくうなずいた。
 言うまでもないことだった。
 登らないことには、ここへ来た意味がないのはわかっていた。
「花火」
「うん」
「見に来た」
「そうだね」
「登る」
「よし」
 耕祐は、両手で梯子を掴んだ。
 片足を、梯子にかける。
 登る。
 塗料がはがれ、手のひらに着く。
 ズボンの脇で手のひらを拭い、改めて梯子に手をかける。
 登れそうだ。
 梯子を登り切り、金網で作られた足場に、そっと体重をかけてみる。
 わずかに軋む音が聞こえたが、突然抜け落ちることはなさそうだ。
「大丈夫そうだ――うわ」
 佳代は耕祐の返事を待っていなかった。
 耕祐の予想よりもはるかに身軽に、佳代は梯子を登りきった。
「うわあ……」
 カチ、という音とともに、懐中電灯の明かりが消された。
 佳代は背負っていたリュックサックを足場に置き、声を出して遠くに視線を向けた。
 耕祐も手摺に両手をかけて、佳代の見ている先に目を向ける。
 二年六組のある、三階の窓から見下ろすのと、高さはそれほど変わらない。
 決定的に違うのは、立っている場所が水田に囲まれた住宅地と、丘の中腹という点だ。
 監視塔から見下ろす先に視界をさえぎるものはなく、明かりのない水田の中に、先浜の夜景が浮かび上がっている。
 その反対側、南を向けば、植林されたスギ越しに、ライトアップされた製紙工場の煙突と水処理プラントが見える。
 スギの木さえなければ、ほぼ三六〇度全体を見渡せそうだ。
 しばらく息を止めたまま、先浜を、それを取り巻く水田を見渡す。
 明かりの落ちた先浜中学校、控えめな街灯が列を描く先浜町末広商店街。比較的背の高い、先浜町役場。
 暗黒星雲のように明かりが全く見当たらないのは、江先稲荷神社の、鎮守の森だ。
 ただの田舎町だ。
 観光客を呼び寄せるようなものはなく、目印になるような目立つ建物なんか特にない。だがそれだからこそ、むしろこの点が、わりときれいな夜景、だと、耕祐は思っている。
 街灯の並ぶバイパスを挟んで、大きくカーブする大久間川の暗い堤防があり、その手前側が、花火大会の会場――町営河川敷公園だ。
 仮設の照明に照らされている堤防を、見物客が歩いているのが見える。
 会場にアナウンスが流れた。
「始まります……って、言った?」
 遠くて、よく聞き取れない。
「――迷子のお知らせです、だって」
 ゴムで束ねられた佳代の髪が、左右に揺れた。
「まだ始まらないか」
 耕祐が佳代に顔を向けた直後、佳代が視線を前に戻した。
 その顔色が、どことなく青ざめているように見える。
「肝試し、って、ここでしたことある?」
 わずかに顔を耕祐に向け、佳代はしばらくの間、考え込んていた。
「……小三の時」
 佳代はそこで、口をつぐんだ。
「来たこと、あったんだ」
 それ以上、佳代は口を開こうとしない。
 否定の言葉がない。
 十分、把握できた。
 耕祐も、それくらいの時に、初めてここへ来た。
 坂道を上りだしてすぐに足を滑らせて転んだ。その弾みでパンツを濡らしてしまい、「家の鍵を落とした」ととっさに言い訳を口にしてそのまま逃げ帰った。おそらく、一生、誰にも話さないだろう。
 佐緒里が転校して来たかどうかという時期だったと、思い出す。
 佳代も、なにか経験があるのだ。
 誰にも話さない、話せないことを、隠し持っているのだ。
 どんなことをしたのか。どんなことがあったのか。
 それは重要ではない。
 ここに来たことがあるという、共通した体験の存在そのもので、十分なのだ。
 自転車で、町から遠出ができる体力と、未熟な冒険心が身についてくるころだ。
 それより小さければ、ここまで自力でたどり着ける体力はないし、家族がそもそも許さない。
 それ以上の年齢になれば、ただの暗い坂道に特別のものを見る目が失われる。肝試しなんて、くだらなくなる。他のことで、刺激を求めるようになる。
 そして最近は、ここへ来ること自体、禁止されてしまっている。
 花火が、なかなか始まらない。
「――まだかな」
「あまり遅いと、幽霊が出るかも」
「やめてよー」
 わずかに頬を青ざめさせ、佳代が笑う。
 耕祐は両手を組んで大きく背筋を伸ばし――
 そこで、動きを止める。
 つられて緩みかけた頬を引き締め、我に返った。
 まだ、他の誰も、姿を現さない。
 どういう事なのか。
 気まずい。
 この『大久間川信号場』に、二人きりで居続けている。
 少なくとも、雅史と秀範は来るはずだった。
 言い出した二人が来ないというのは、一体どういうことなのだ。
 同級生の女子、しかもあまり接点のない、藤曽根佳代と二人きりで、花火を見ている。
 頭の中の、熱を帯びた両耳のすぐ内側あたりが、猛スピードで演算を始める。
 冷静かつ的確、かつ最短の時間で、現状の分析と以後の行動指針を立案しなくてはならない。
「どうして、誰もいないんだろ」
「――?」
 口をわずかに開いて、佳代が小さく小首をかしげる。
 雅史や秀範と結託して、耕祐をからかっているのか。
 足元のリュックサックの中には小型のレコーダーが入っていて、耕祐との会話を記録しているのか。
 カメラを構えた雅史と秀範が、信号所の陰からこちらをうかがっているのか。
 そして、週が明けた朝、やけに機嫌のいい雅史と秀範が、制服の尻ポケットに手を突っ込んで、上目がちにニヤついてくるのか。
 そして、こう話しかけてくるに決まっているのだ。

 おはよう尾松くん、楽しい週末を過ごせたかね?
 実はここにだね、君に見てもらいたいものがあるのだが。

 全ての事態に対応するためには。
 結論は明快だった。
 なにも知らない、なににも気づかないふりをすればいい。
 今この瞬間に、仮に雅史と秀範、あるいはほかのクラスメイトが飛び出してきたところで、ごく自然の反応を見せればいい。
 『尾松耕祐は花火を見るという口実で藤曽根佳代を暗いところに連れ込んだ』と言われたとしても、『雅史と秀範を待っていた』とだけ答えればいい。
 なるようになれ、だ。
 耕祐は腰を下ろした。
 雲の隙間から顔をのぞかせている夏の星座と、先浜町末広の夜景、そして、花火大会会場になっている、大久間川沿いの町営河川敷公園を、交互に眺める。
「――はい」
「……ん?」
 スプレー缶を、佳代は耕祐に手渡してきた。
 虫よけだった。
「あ、ありがとう」
 じっとしていると、蚊が集まってくる。
「刺された?」
「あ、うん」
「じゃ、はいこれ」
 ガラス瓶に入っていて、先端がスポンジになっている虫刺されの薬を、渡された。
「はい」
 子袋入りのクッキーを、渡された。
「あとこれ」
 紙パックのジュースを、渡された。
「あとはね、えーと」
「ま、待って」
 財布だけ持って家を飛び出した耕祐とは、装備品に大きな開きがある。
「そんなに持って来たの?」
「え?」
 手のひらから溢れそうなほどにいっぱいキャンデーを乗せた佳代が、きょとんとしている。
「だって、言ったじゃない」
「誰が」
 佳代が、キャンデーを乗せたままの手で耕祐を指差した。
「尾松くんが」
「なんて」
「クラスのみんな、来るって」
 耕祐は、はっとなった。
 佳代の目に、わずかな猜疑心が浮かんでいた。
 その目を見て、耕祐は確信した。
 間違いなく、雅史と秀範は、ここにはいない。
 来ることも、ない。
 なにが起こったのかは、分からない。分からないが、行こうと言っていたものの、なにかが起こって、ここに来ることはなくなった。
 少なくとも佳代は、雅史や秀範、もしくはそれ以外の誰かと、口裏を合わせて耕祐を謀る予定ではいない。
 そして、耕祐が疑いの目で見ているのと同じ、あるいはそれ以上に疑い、佳代は耕祐を警戒の眼差しで見ている。
「――本当だって」
 佳代は、表情を変えない。
「今日、教室で、雅史と秀範が、本当にパルプ町に、行こう、って――」
 花火大会の会場から歓声が沸き上がった。
 遠慮のない破裂音とともに、夜空に光の花が咲く。
 花火大会の始まりである。
「始まった」
「うん」
 おそるおそる、耕祐は佳代に目を向けた。
 佳代の目が、打ち上げられる花火で光っている。
 監視塔の手すりを両手で握り、佳代はじっと、花火を見ている。
 耕祐は、佳代の視線から感情を読み取ろうと試みた。
 怒っているのか、後悔しているのか、あきれているのか。それとも。
 嬉しいのか――
 花火を見上げていた佳代が、すぐさま耕祐の視線に気付いた。
「ほら」
「あ、うん」
 耕祐の手に、半ば強引に、キャンディーが乗ってきた。
「せっかく、袋ごと持って来たのに」
「あ、ありがとう」
「食べてよ」
「うん」
 包み紙をほどいて、口に運ぶ。
 普通に、甘い。
 キャンディーを口に含んだまま、耕祐は、大きく息を吐いた。
 奇妙なことになってしまっている。
 どうして、誰も来ないのだろう。
 
 かすかに、「エンゼル節」が聞こえる。
 花火が途切れた。
 なにかをアナウンスしている。
 今日は、盆踊りはないはずだ。特設ステージも設けられていないから、今夜のエンゼル節は、単にBGMとして流れているようだ。
 いつものように雅史と秀範が一緒だったら、次の行動はだいたい決まっていた。
 国道バイパス沿いにあるスーパー『ショッパーズ先浜』に寄って、半値のシールが貼られている適当な惣菜や菓子パンを買って、駐車場で並んで座って食べて帰るのが、いつもの行動パターンだった。
 雅史と秀範の二人は、まず間違いなく、来ない。
「――?」
 意味もなく上に向けた視線の隅を、なにかが横切った。
 黒く、大きな影に見えた。
 飛行機のようだ。
 たまに見える旅客機にしては、妙に小さく、かなり低く飛んでいたように見えた。
 横切った先は、工場を取り囲む杉の木でさえぎられていた。
「……どうしたの?」
 視線を左右にめぐらしている耕祐を、佳代がじっと見ていた。
「――い、いや、なんでも」
 佳代の視線が、耕祐の目からわずかに逸れた。
「ほたる」
「え」
 佳代の視線を追って、耕祐は振り返った。
 かすかに緑を帯びた豆粒ほどの黄色い光が飛んでいた。
 なにかの法則に従って明滅しながら、杉林の中でふわふわと旋回を続けている。
「この辺りって、沢とかあるんだね」
「え?」
「いや、ほら、蛍って、きれいな水で育つっていうじゃないか」
「――ああ」
 再び、花火が上がりだした。
 佳代は納得したように、視線を上に向けた。
 耕祐がなにを言いたいか、ようやく把握したらしい。
「このあたりの水は、だいたいきれい」
「そうなんだ」
「工場があるから」
「工場?」
 佳代が花火を見上げたまま、うなずいた。
「工場って、製紙工場?」
「そう」
 耕祐は考え込んだ。
 初めて聞く話だった。
「排水だけじゃない。町の下水もごみも、大久間川の汚泥も、全部、工場で処理してる」
「本当に!?」
「あー」
 佳代は、わずかに眉をひそめた。
「尾松くん、嘘だと思ってるー」
「だって」
 耕祐は言葉を探した。
「工場っていうと、なんとなくさ」
「汚水やごみや、汚泥から水素やメタンを取り出して、それで発電してる」
「そ、そうだったんだ」
「今の発電プラントが稼働しだしてから、大久間川河口域及び実浜郡の水質は、目に見えてよくなっている」
 花火に視線を戻し、佳代は少しだけ嬉しそうな、得意げな目をした。
「故紙再生はもちろんのこと、プラスチックの再生もやってる」
「すごいな」
「方法は企業秘密だけど」
 ずっと聞こえていた花火の炸裂する音が、ふっと消えた。
 花火大会が、終わったようだ。
 途切れがちな場内放送と、まばらな拍手が聞こえる。
 もっと、続けばいいのにと思う。
 佳代が、物足りなそうな目で、町営河川敷公園のある方角を眺めている。
 本来のコース、閉店時間ぎりぎりの『ショッパーズ先浜』に、佳代と行くべきかどうか。
「藤曽根さんって、パルプ町に住んでいるの?」
「――え?」
「いや、なんか、工場のことに詳しそうだし」
 大久間川信号場に、一人で自転車で乗り付けているのだ。
 ありえないほど遠くから来ているとは、考えられない。
 それならば、ここから自転車で十分程度のスーパーに一緒に行くくらい、なんの問題もない。
 それに、と、耕祐は思った。
 誘っておいてこなかった雅史と秀範が、いるかもしれない。
 もし見つけたら、問い詰めてやればいい。
 ジュースの一本ずつくらい、おごらせよう。
 そう思うことにした。
 佳代は、耕祐を見てから、手すり越しに地面を向いた。
 聞くだけ聞いてから、耕祐は軽い後悔を感じた。
 あまり、答えたくないのかもしれない。
「一つだけ、知りたいことがあるの」
「――え」
 佳代が、じっと耕祐を見ている。
 さっきまで花火を映しだしていたその目が、じっと、耕祐を向いていた。
「尾松くん、って」
 丘の反対側を、列車が走りぬける。
 風切音に包まれた電動機のうなり声と、レールの継ぎ目を車輪が叩く振動が伝わってくる。
「本当のこと、話せる人?」
 耕祐は言葉が出せなかった。
 あまりにも、唐突だった。
 佳代の質問の意味が、理解できなかった。
「それ、一体」
「じゃあ、ね――」
 佳代自身も、自分の問いがあまりにもぼやけていたと察したらしい。
 佳代が耕祐に近づいた。
 着ている長袖のTシャツが触れないぎりぎりの距離で、佳代はぺたりと座った。
「わたしを、パルプ町に行こうって、花火を見に行こうって、誘ってくれたよね」
「う、うん」
「で、今こうして、一緒に花火を見てた」
「うん」
 気圧されるようにうなずく耕祐を見て、佳代は一呼吸した。
「今、どんな気持ち?」
 なぜか、圧倒されていた。
 まさかこんなことを聞かれるとは思わず、耕祐の思考は混乱した。
「楽しかった」
 佳代が不満げに口を開こうとするのを見て、耕祐は慌てて続ける。
「ふ、藤曽根さんが、き、来てくれて嬉しかった」
「本当に、それだけなのね」
 耕祐は頭の中が真っ白になった。
 なぜ、こう追及されているのか。
 これ以上、なにを言えばいいのか。
 藤曽根佳代は、一体、どんな言葉を待っているのか。
 むずがゆい焦燥感が、耕祐のうなじから後頭部にかけ上る。
「ごめんね、わたしの聞き方が悪かったかな」
 真剣な眼差しを、佳代は耕祐に向けていた。
「今ここで、あなたが言ったことは誰にも言わないし、あなたが正直に言ったものならば、わたしはそれになにも批判をしない」
 耕祐は動けなくなった。
「なにも秘密にしてなんて、わたしは言わない。あなたが今後、なにをどう言ったって、わたしは全然問題にしない」
 藤曽根佳代の目が、ありえないほどの力と熱を帯びている。
「忘れたって、全然かまわない。だから――」
 このようなことを口にする人物がいるとは、今まで考えたこともなかった。
「――だから、今、思っていること、話して」
「……」
 なにも考えていないわけではなかった。
 耕祐の脳裏に、志賀佐緒里が浮かんでいた。
 雅史や秀範、そして佐緒里と一緒に、ここへ来て、花火を見たかったのが、率直な思いだった。
 それが、どういうわけか藤曽根佳代と二人きりになっていた。
 真っ白い靄のようなものが、耕祐の頭の中にかかっていた。
 あまり接点のなかったクラスの女子と、どういうわけか、肝試しに花火見物。
 しかも、たった二人きりで。
 そういう事も、悪くない。
 もう少し、藤曽根佳代のことを知っても、いいだろう。
 そう、思いかけていた。
「そう、それ」
 耕祐はぎくりとなった。
 まるで耕祐の心の中を読んで待っていたかのように、佳代がさらに近づいた。
「わたし、知りたいの」
 佳代は、耕祐の目をのぞき込んでいた。
「なにを言ってもいい。ただ、わたしは知りたいの」
 耕祐は腹を据えた。
「教室で言ったかもしれないけど、パルプ町に行こうっていう話は、雅史と秀範が言い出したんだ」
 佳代はじっと、耕祐の目を覗き込んでいる。
「僕は、実は、本当は」
 言い出した以上、途中で止めるのも、礼儀に反するような気がして、耕祐は一気に続ける。
「佐緒里と一緒に来たかった」
「それで」
「断られた」
「どうして」
「塾だからって」
「そうじゃない」
 わずかに、佳代が首を振った。
「尾松くんは、なんて言って誘ったの」
「え、だから、みんなで行くから、佐緒里もどうかって」
「そしたら、塾に行くから無理とかなんとか言われた」
「そ、そうだよ」
「――そっか」
 佳代はなにか含むように笑った。
「だからわたしを誘ったの?」
 耕祐の頭蓋骨の内圧が急上昇した。
「だから、って、なんだよ」
「志賀さんに断られたのがショックで頭に来て、その腹いせにわたしを誘った。違わない?」
 頭の毛穴から、煙が出そうだった。
 まさにその通りだった。
 しかし、そのことをそうだと素直に認める自分自身が、どうしても受け入れられない。
 自分以外に的確に分析されるような自分は、決して自分とは認めたくない。
 受け入れられないが、佳代に念を押されていた以上、否定してしまっては、佳代に対して嘘をつくことになる。
「そ、そうなんだけど……」
「なんだけど、なに?」
 耕祐は、佳代の目からわずかに視線を逸らした。
 ここのところしばらく、佐緒里からは否定の言葉しか受けていないような気がしていた。
 そう思うことで、自分のなにかを正当化しようとしているのではないかという疑いも、同時に存在してはいたが。
「まさか、君が来るとは思わなかった。断るだろうなと思ってた」
 身じろぎもできずに、耕祐は佳代を見た。
 うなずくことも首を振ることもなく、ただ佳代はじっと、耕祐を見ている。
「佐緒里に断られたのにはがっかりしたけど、腹いせに藤曽根さんを誘ったというのは、ちょっと違う」
 佳代は、二、三回、目をしばたたかせた。
「その場の勢いだけで始めたようなこんなことに、君が乗ってくるとは思わなかったもの」
 口を動かしているうちに、耕祐の中にようやく余裕が生じ始めた。
「いろいろ準備をしていたみたいで、楽しみにしていたんだなって思う」
 じっとしているのは、話し終わるのを待っているからだ。
 そう思うことにして、耕祐は続ける。
「だから、もう少しだけ、藤曽根さんのことを――」
 耕祐はここで、口をつぐんだ。
 明滅する赤橙が、視界の隅に現れたからだった。
 パトカーが、信号場の下の道路を走っている。
 この信号場に、見回りに来たのだろうか。
「続けて」
「藤曽根さんのことを、もう少し、知りたいなって」
 頭の中で、なにかが泡を吹いて沸騰していた。
 なぜ、こんな気持ちになっているのか、耕祐には理解できずにいた。
「もっと、話がしたいなって思っている」
「ありがとう」
 佳代が笑った。
 ようやく解放され、耕祐は苦笑交じりに、背中を監視塔の鉄骨に預けた。
「――誰にも、言わないでよね」
 耕祐の全身から、汗が流れ落ちていた。
「今度、志賀さんに話しとく。尾松くんがさびしがっていたって」
「ちょっと!!」
「うそうそ」
 リュックサックの中からジュースを取り出しながら、佳代は声を上げて笑った。
 ストローを紙パックに突き刺し、一口飲んでから、改めて耕祐に目を向けた。
「本当のことを話すのって、すっごいエネルギー、消耗するよね」
「勘弁してよ――」
 貰っていたジュースを飲もうとして、耕祐は動きを止めた。
 また、点滅する赤橙が見える。
 どこかへ走り去っていたはずのパトカーが戻ってきて、近くに停まっているようだ。
「なあ」
「え」
「自転車停めた辺り、じゃないか?」
「なにが?」
「だから、あのパトカー」
「だいじょうぶ」
 そう言っただけで、佳代も耕祐に並んで、鉄骨に背中を預ける。
「パルプ町に住んでいた」
「え?」
 くわえたばかりのストローから口を離して、耕祐は佳代を見た。
 肩が着きそうなほど近くに、佳代が並んで座っている。
「尾松くんが聞いたんじゃない。パルプ町に住んでるの、って」
「――そうだったね」
「今も少しだけ残ってるんだけど、職工向けの長屋があってね、そこに住んでた」
「だから、工場のことに詳しいんだ」
 ほんの少しだけ、佳代がうなずいた。
 紙パックのジュースを、耕祐は一気に空にした。
 それに気付いた佳代が、リュックの中から丁寧に畳まれたレジ袋を取り出し、耕祐の前で広げた。
「はい」
「あ、ありがとう」
「楽しかった。わたしも、来て、本当に良かった」
 レジ袋の口を縛りながら、佳代は耕祐に笑顔を向けた。
「そう言ってくれると、救われる」
「ふふ。変な言い方」
 杉林の中から、一匹の蛍が姿を現した。
 耕祐と佳代の座る監視塔に向かって上昇し、二人の見守る中、明滅しながら音もなく近づいてくる。
 蛍は佳代の目の前でわずかに速度を緩めた。
 すっと伸ばした佳代の指先に、絡みつくように停まった。
「……すごい」
「偶然、だって」
 シアンがかった黄色い光に照らされ、佳代はじっと、指先の蛍を見つめている。
 河川敷公園に並んでいた特設の照明が、一つ、また一つと消えていく。
 花火大会が終わる。
「終わっちゃったね」
 あっという間の数十分だった。
「晴れていて、本当に良かった」
 耕祐は、まともに答えることができずにいた。
 花火を見ている余裕なんか、ほとんどなかったような気がしていた。
「わたし――」
 佳代に軽く息を吹きかけられ、蛍が飛び立った。
 蛍を見送った佳代が立ち上がり、リュックを背負った。
「必ず、どこかにいるから」
 さびしそうに、佳代は笑って、懐中電灯のスイッチを入れた。
「え?」
「それじゃ、おやすみなさいです。今日は本当にありがとう」
 耕祐の返事を待たず、佳代が監視塔の梯子を下りていく。

 *

 定期テスト一週間前の教室は、部活動の朝練習も休みになり、いつも以上に生徒の密度が高いような気がする。
「あ、おい耕祐、聞いたか」
「え、なに、なにを」
 翌週の朝。
 雅史と秀範に、どうして大久間川信号場に来なかったのか追求しようとした耕祐は、出ばなをくじかれてしまった。
「出たらしいぜ」
 なにかを興奮気味に話し込んでいた同級生の輪から、雅史が耕祐に近づいてきた。
「でたって、なにが」
「幽霊だよ、ゆうれい」
「えっ」
「『大久間川信号場』。列車の運転士が、信号場の監視塔に上っている、古い制服姿の子供の姿を見たって」
「それも、二人なんだと。男の子と、女の子の幽霊が」
 秀範も、登校してきた耕祐に気が付いた。
「それ、いつの話?」
「先週の金曜だよ。花火大会の日だ」
「そ、それはこわいなあ」
 心臓を体に留めているボルトというものがもしあったならば、耕祐のそれは今、完全に緩み、抜け落ちていた。
 雅史と秀範の声を、真正面から聞き続けることができない。
「そんなことより、おまえ」
 秀範は耕祐の背中を軽く小突いた。
「どこ行ってたんだよ」
「せっかく佐々岡先生がおごってくれたってのに」
 雅史と秀範の話に、ついていくことができない。
「それによ、先生、なんかべろんべろんに飲みまくってさー。すごかったぞーありゃー」
「え、え?」
「本ッ当に、残念だったな耕祐。焼肉食べ放題だったのに」
「そうだったのか」
 耕祐の関心は、そんなところにはなかった。
 花火大会の夜の出来事が、頭の中で何度も繰り返し際され続けていた。
 鞄を机に乗せ、できるだけさりげなく、顔をゆっくりと、左後ろの席に向ける。
 固定ボルトの抜けた心臓が、耕祐の胸の中で暴走を始めた。
 寒気までしてきた。
 入るクラスを間違えたのか、そう思いかけた。
 左後ろの席に、見たことのない生徒が座っていた。
 耕祐は、その、見たことのない女子生徒の周りを、素早く観察した。

 ――えー、引っ越しするんだ。
 ――いつまでこっちにいるの?
 ――んと、今月いっぱい?
 ――えーなにそれ。すごく中途半端。
 ――父さんの転勤が、今月決まっちゃって。
 ――夏祭りどうするのさ。
 ――それは、見に来たいなあー。
 
 同級生の女子が取り囲んでいるが、会話の内容が、どう見ても初対面の転校生を相手にしているようには見えない。
 そもそも、転校生というものは、教師が紹介してから、クラスに入るもののはずではないのか。
 左後ろに座っているのは、あの女子ではなく――
 そこまで考えて、耕祐の頭の中でなにかが固着した。
 暴走を始めた心臓の異常な脈動が、耳の中にまで拡大した。

 耕祐は両手で頭を押さえた。
 思い出せない。
 つい先週の末までそこにいたはずの、同級生の名前と顔が、どうしても頭の中に浮かんでこない。
 浮かんでこないが、間違いなく、今座っている女子とは別人が、座っていたはずだった。
 忘れ物を思い出せない、隠しようのない焦燥感にさいなまれながら、耕祐は教室の様子をうかがう。
 クラスの誰一人として、このことを気にかけている様子はない。
 なにかがおかしい。
 耕祐は鞄を机の横のフックにかけ、立ち上がった。
 教卓の右上の隅に、クラスの座席票がテープで貼られている。
 それを見れば、そこに座るべき生徒が誰かが、一目でわかるはずだった。
 座席票を見たまま、耕祐は身動きが取れなくなった。
 尾松耕祐の左後ろ、座席票でいえば耕祐の右上の座席を、何度も何度も、指先で確かめた。

 宝蔵美代。

 誰。

 週末に見た光景を、口にした言葉、耳にした声を、可能な限り脳裏に並べてみる。
 そのどこにも、宝蔵美代などという人物は存在しない。
「――なにしてんだ」
 秀範が、耕祐の背後から両肩に手をかけた。
「ん、なんだおまえ、浮気相手でも探してんのか」
「う、浮気って」
「そういやおまえも志賀も、花火大会に来なかったよなあ」
「だってあいつ、塾だから来ないって」
 耕祐は佐緒里に目を向けた。
 話にあまり乗れないのだろう。佐緒里は、一塊になっているクラスメイトを、机に座ったままぼんやりと眺めている。
「はいはい、仲のおよろしいことで」
「そうじゃなくて、僕は――」
「どうした」
 耕祐の口調に、秀範がほんのわずかだけ、不思議そうな目をする。
 チャイムが鳴った。
「耕祐悪い、ちょっと」
 耕祐を押しのけて教壇の中央に立った秀範が、ぐるりと視線を巡らした。
「いいか、先生が来たら拍手だぞ、いいな?」
 くすくすと、クラスの中で笑いが漏れる。 
 鳴り終えたチャイムとほとんど間隔をおかず、プリントを抱えた佐々岡先生が姿を現した。
 部活動の一切が休みになり、その時間を、プリントを使った自習に振り替えるのだ。
「きりーつ」
 二年六組の生徒達が一斉に席に戻って立ち上がり、次の瞬間、割れんばかりの拍手を始めた。
「先生ご馳走様でしたー!」
 雅史が声を張り上げた。
「ご馳走様でしたーっ!」
 続けて叫ぶ二年六組の生徒を前に、佐々岡志津先生が顔を真っ赤にして両手を振り回している。
「ちゃくせーき」
「なあ、秀範」
「ん?」
 耕祐は、前の席に座る秀範の背中を指で突いた。
「あの、宝蔵さんってさ」
「なんだ」
「花火大会、来てたのか?」
「いたぞ。――なんで」
 前の席から回ってきた数学のプリントを手渡しながら、秀範は耕祐に、いぶかしげな目を向ける。
「い、いや、別に」
「ほれ、さっさと回せ」
 秀範は耕祐の肩越しに後ろの生徒を見てすぐ前を向き、問題に集中しだした。
 耕祐はプリントを後ろの同級生に渡し、身体を戻しながら、宝蔵美代を見た。
 一瞬、目が合っただけで、宝蔵美代はすぐ、プリントに視線を落としていた。

※本作品の続編につきましては、現在執筆中であります。完結しだい、当ウェブサイトにて発表いたします。もうしばらくお待ちください。(2013年4月16日現在)

トップページへ

inserted by FC2 system