土用揚羽
正確には覚えていないが、四歳か五歳の時のことだ。
その頃はまだ実家の庭に植えられていた山椒の木で、僕はアゲハチョウの幼虫を見つけた。
濃い緑色に、小さい目玉のような警戒色の模様。そっと指でつつくと、にゅるっと出てきたのはYの字の形をした、オレンジ色の臭い角。
生まれて初めて見た、生きている、本物のアゲハチョウの幼虫。
しかも、終齢だった。
さなぎになるまで、それほど日数がない。
ページが分離するほど読みふけった昆虫図鑑の、「むしのかいかた」が、頭の中で弾けるように一気に広がった。
水を張った牛乳瓶に、幼虫のついた枝を差す。
落ちて溺れないよう、瓶の口には脱脂綿を詰める。
図鑑の挿絵では、牛乳瓶に活けられた幼虫付きの枝は、縦長のガラスの水槽に入れられ、サランネットと輪ゴムで覆いがされていた。
僕は家へ取って返し、廊下を全力で走り、台所へ飛び込んだ。
家には水槽がなかった。
しかし、僕には策があった。
その頃の味付海苔は、巨大なガラス瓶に入って売られていた。梅酒や梅干しや、金魚を入れるのに最適な大きさで、使われていない空き瓶が、納屋の軒下並んでいた。
「サランネット」が何物であるかなど知らなかったが、ガーゼを力任せに引けば網状になる。それを輪ゴムで留めればよい。
この日が来るのを、僕はずっと待っていた。頭の中で何度も繰り返していた予習が、ついに役立つのだ。
「お母さん!」
台所にいた母と父方の祖母が、無言で僕を見た。
なにかを料理していた、と思う。
その時のその光景を、はっきり覚えているわけではない。
夕食前の、日が暮れだした頃だったから、母と祖母が台所にいたとすれば、最も無理のない推測が、夕食の支度だろうというだけだ。
僕は、息を切らせて母に迫った。
「お母さん、海苔の瓶と牛乳瓶かして!」
母と祖母が、また始まった、という顔をした。
「いいわよ。家には入れないでね」
もう、虫のことだと分かっていたので、母もすっかり、僕の発作的な思いつきに慣れていた。
「うんっ!」
流し台の左端、一番上の引き出しから輪ゴムをいくつか取り、茶の間の戸棚から救急箱を引っ張り出す。
ガーゼと脱脂綿を握って、僕は納屋の軒下に急いだ。
はやる心を抑えながら、味付海苔の瓶を洗い、牛乳瓶に三分の一ばかり水を注いだ。
草刈鎌や鉈の入った道具箱から、盆栽用のはさみを掴み、山椒の木へ向かう。
味付海苔の瓶の長さに合わせて、僕はアゲハチョウの幼虫のついた枝に、刃を近づけた。
手が震えた。
ここで幼虫を地面に落としてしまえば、皮膚か内臓を傷めて、その日のうちに死んでしまう。モンシロチョウの幼虫で、何度も経験していた。
とげのないところを選んで枝を強く掴み、僕は一気にはさみを握った。
切り離される瞬間、枝に振動が伝わる。
背筋を緊張が走る。
成功した。幼虫がついたまま、枝を切り離せた。
胸の内側で、なにかが湧き上がる。
牛乳瓶にその枝を差しこみ、瓶の口に脱脂綿を詰めた。
さらに味付海苔の瓶に入れ、ガーゼと輪ゴムで栓をした。
完成した。
日が暮れ薄暗い納屋の軒下に、アゲハチョウの幼虫が入れられたガラス瓶がある。
山椒の枝が、図鑑の挿絵のようにはまっすぐにならなかったが、僕の心は躍った。
それまで、飼ったことのある虫といえば、ダンゴムシやエンマコオロギ、モンシロチョウの幼虫ぐらいだった。
アゲハチョウの記事は、僕の持っていた昆虫図鑑では先頭近くにあって、他の虫とは扱われ方が違うと、僕は感じていた。
そのアゲハチョウの幼虫を、僕は今、手にしている。
わけもなく、自分自身のレベルが上がったような気がして、僕は再び台所へ走った。
母に見せたかった。
図鑑の先頭の方に載っているアゲハチョウを、飼えるようになったのだ。
僕のなしとげた、この偉業を、認めて欲しかった。
エプロンを強引に引き、僕は母を納屋まで連れ出した。
「見て、みてみて!」
わけもわからずにいる母の顔を、僕は味付海苔の瓶に近づけさせた。
うわ、と言ったきり、母は言葉を失った。
その反応で、僕はそれでよかった。
僕が虫を好きで、よく捕まえていることは母は承知していた。母が虫嫌いなことを、僕は承知していた。
「こんちゅーずかん、みたいでしょ、ね、ね?」
「え? ああ――」
僕がなにを言っているのか、母がようやく分かった。
「最後まで、かわいがるのよ」
「うんっ!」
その様子を見ていた祖母が、どこかに電話をかけ始めた。
実家から直線距離にして百メートルも離れていない近所に、同い年のいとこが住んでいた。
祖母の娘、つまり、僕のおばの息子で、祖母は僕よりも、そのいとこのことをいつも可愛がっていた。
夕食後、そのおばが姿を現した。
アゲハチョウの幼虫を持っていく、というのだ。
僕は怒った。
泣いて文句を言おうと思った。
が、僕はもう、その頃の時点で、よその家のおばの前で泣けるほどには、幼くはなかった。
もうちょっと小さければ、おばの前でも泣いた。
だが、もうちょっと小さかったら、アゲハチョウの幼虫のすばらしさを、知ることもできなかった。
祖母の言い分は、こうだった。
僕と同い年のいとこは、つい最近、大手術をした。
最近、やっと病院から帰ってこれた。
死ぬかもしれない病気が、少しだけ治った。
でも身体が弱いから、僕と違って外で遊んだり虫取りをすることができない。
僕と違って、また病気が悪くなるかもしれない。
僕と違って、いとこは大変なのだ。
だから、この幼虫をいとこにあげると言うのだ。
わけが分からなかったが、黙るしかなかった。
アゲハチョウの幼虫を見つけた僕はどうでもいいのかと、祖母に聞きたかった。
僕がきれいに洗った味付海苔の瓶と、その中にいるアゲハチョウの幼虫を抱え、すっかり日の暮れた砂利道を、おばが歩いていく。
僕はそれ以上、文句を言えなかった。
度を越すと、納屋に閉じ込められたからだ。
「――寝てるの?」
僕は顔を上げた。
座卓の反対側に座る彼女が、僕の顔の前でちらちらと手をかざしている。
うなぎでも食べよう。と、僕が誘ったのだ。
泥くさくて脂がきついから嫌。
彼女はそう言って、天ざる定食を注文していた。
寿司と天ぷらと、ざるそばと、汁粉のセットメニューだ。
せっかく、わりと有名なうなぎ屋に予約したというのに。
「先に食べてれば、って、言ったじゃん」
僕のうな重の方が、ずっと先に来ていた。
ビールをちびちびやりながら、二人で天ざる定食を待っていた。
「まあ、ね」
ようやく、天ざる定食がやってきた。品数が多い分、時間もかかったのだ。
彼女は座布団の上で、正座から姉さんすわりに腰をずらし、下手くそに割り箸を割った。
「いっただきまーす」
僕は山椒をうなぎにかけようとして、ふと手が止まった。
「山椒、ってさ」
「なに」
そばを箸にからげた彼女が動きを止め、上目遣いに僕を見る。
「山椒って、アゲハチョウみたいだよね」
「あんた、アゲハチョウ食べたことあるわけ?」
「ないけど」
「やめて。ごはん食べてるのに虫の話とか」
「――ごめん」
「わかれば、よろしい」
僕は気を取り直した。
控えめに山椒を振りかけ、本物の漆器のお重を持ち上げる。
「少し、食べてみろって」
箸を着けないうちにと、僕はお重を彼女に差し出した。――見向きもされない。
「ほら」
「泥くさいから食べたくないって、ついさっき言ったの、もう忘れたの?」
「なにごともやってみようという気持ちこそ」
「いーやーでーすー」
言うだけ言ってから、彼女はいたずらっぽい目を僕に向けた。
あのアゲハチョウは、今、僕の目の前で、あなごの天ぷらをほぐしている。